火星の月の下で

日記がわり。

文学賞と選者

とある文学賞で好評だった作品のレヴューが書肆系サイトにあがってて、その作品にかなり心惹かれたのだが、今回はその作品のことではないので、書名は書かない。
文学賞と一口に言っても応募形態はいろいろで、従来は本人が応募するものが主流というか大半だったのだが、最近はウェブ掲載しているものを賞サイドが引っ張ってきたり、表向きは応募でも実際は編集企業関係からの提出だったりと、方法としては広がっている。
実は自分も以前ネットにアップしてた作品を応募しようとしたことがあったのだが、その年度から選者が変わってしまってやる気をなくしてしまったことがあった。
つまり、尊敬する大好きな選者が急逝されて、大嫌いな作家が選者に入ってしまったからなのだ。(笑)

文学賞ってのはだいたい選者は公開されていたりするもので、歴史ある賞だと受賞者が大成して戻ってきて選者を務めることもある。
作家が多いのはもちろんとして、有名な文学研究者、編集者、文化人、学者などがその役を担い、ある種の色を持っていく。
ただ、応募しようなんて考えている連中は、だいたい天よりも高いプライドを持ってたりするので、その選者の名前で二の足を踏んでしまう人もいる。

誰かが選ばなくてはいけないし、極端に大衆向けの作品ならいざ知らず、多少なりとも文学系であればなんらかの作家が入ることは仕方ないし、むしろ入っていないと「この文学賞大丈夫か?」なんて思ってしまったりするものだ。
だが、その作家の名前が気に入らないと、応募者にとって不幸なことになる。
量を「書かないと上達しない」と言うのは真理であるが、同時に書いたものを投稿しないと、また進化しないものだ。
選び手が、自分が嫌いなヤツだったり、自分より格下だと思っていたり(天よりも高いプライドのなせるわざ)、ひどいときには年下ってだけで嫌になったりしてしまう。

そういうときは「視点の違いである」として、そのことを創作の基準の一つとして受け入れていければいいのだが。
それに、技術的な問題も、推敲に推敲を重ねていたつもりでも、出てくるわけなので、アマチュアとして純粋に自分のためだけに書いて死蔵(もちろんこれだって立派な創作だとは思うけど)してしまうのならともかく、作品のブラッシュアップの一つとして、投稿、応募は有益なことなのではないか、と最近考えている。
つまり昔の自分に「選者がイヤなヤツでも応募してみたらどうだ」と、老齢になった今、声をかけたい気分なのだ。

嫌いな作家に応募作を酷評されたらかなりの心理的ダメージを食らうだろうなぁ、というのは想像に難くないところではあるんだけどね。(笑)
しかしそういうことこそを技術の錬成と考えて、乗り越えていかなくちゃいかんよなぁ。