火星の月の下で

日記がわり。

散文と韻文

清水義範早わかり世界の文学を読む。
まぁ、なんていうか、こういうのを書いて出版できる、っていうのは、物書きとしてうらやましいなぁ、と思った。
冒頭のところで、こういうことをやるようになったらおしまいだ、みたいなことを師とあおぐ故・半村良の名を出して弁解・・・でもないかな、書いてたけど「文学意識」とかそういうのとは別に、自身の嗜好も含めて、世界の十大小説、とかって出してしまうのは正直ちょっとうらやましい。
清水の小説はそんなに読んではいないのだけど、TVドラマにもなった『国語入試問題必勝法』が実に面白くて、けっこう好きな方である。
さて、この中にあった、世界十大小説・・・何が選ばれているか、ということより、こういうことが書ける、という作家的地位がすごく羨ましかったわけなんだが、読んでいて、あれ?・・・と思ってしまった。
それは、ゲーテの『ファウスト』を初め、劇作品がいくつかあがっているのである。
広い意味で物語文学としての小説、としてあげたんだろうとは思うけど、散文に韻文を混ぜてほしくなかったなぁ、という点でややがっかりしたところ。
散文作品だけでも、世界十大〜・・・というのは作れると思うので(たしかにシェイクスピアゲーテの大半を除くというのはつらいところではあるけど)散文の範囲内で選んでほしかったなぁ、という気がかなりする。
しかも、これは清水氏自身、弁解しつつ書いてはいるんだけど「未読」のものもあげているのである。
文学作品として必読、という認識であげていると思うし、決してその未読を隠しているわけでもないから、そのこと自体はいいんだけど、なんとなく「小説」といいながら戯曲作品をあげてしまっている感覚と共通したものを感じてしまって、少し気分が減じてしまった。
一応、講演の中からの書き直しなので、とか、いろいろ斟酌するところもあるし、そんな重箱の隅をつつくようなことは言うべきではなく、本書のスピリッツたるパスティーシュ文学術のところをしっかり読むべきだと思うんだけど、どうしても気になってしまったので、記録しておく次第。