火星の月の下で

日記がわり。

水、清きところに、魚住まず

教育界に身を置いてると、高き山と深き谷の関連に気づく瞬間があって、人が集団で社会を営んでいる以上、それはある程度仕方のないことだろうと思う。
底辺の受け皿の問題とか、本人の資質ではなく外的要因でそうなってしまっていた場合の規制の解除とか、そのことについての問題もいろいろあるけど、ひとまずそれはおいといて、構成人員の質の変化の問題。
島国ゆえに、地域内階級差において、民族的対立、宗教的対立は、他地域ほどには激しくなかった。もちろんないわけではなかったけど。
しかし現在、この階級構造の中に半島民や大陸民が侵入してきつつある。これが階級闘争と結びついたらどうなるか。
日本人にとって、実に有史以来ほとんど初めてに近い体験になるのではないだろうか、ということが着々と進行している。
何がいいたいのか、というと、昔の地回りは同じ日本人が大多数だった。しかし今の地回りの中にかなりの割合で半島民が入っている、ということだ。
これを力づくで強制的に排除してしまえ、という警察国家的感覚で言ってしまうのは簡単だ。しかしそうなるととんでもない闘争になる。かといってこのまま様子見を決め込んでいい水準点は、もう過ぎてしまっている。
水、清きところに、魚住まず・・・昔の人は偉いことを言ったものだ。
だがその魚が、今まさに獰猛な外来魚になりつつある、ということもまた知らなくてはいけない。