火星の月の下で

日記がわり。

ワルターのモーツァルト

先日、知り合いの家で、20年ぶりくらいにモーツァルト交響曲25,28,29番を、ワルター指揮コロンビア響で聞いた。
十代の頃から聞いていたので、細部にわたるまでその響を耳が覚えていたのだが、音楽に対しての感じ方がかなり変化していたのに気づかされた。
昔は、もっと中音〜高音にかけて、明晰な、それでいて情緒を含んでいたように聞いていたのだが、今の耳で聞くとそれほどの明晰感は感じない。
情緒の柔らかさ、繊細さは昔のままなんだが。
これはやはり、録音技術の発達と、80年以降の流行というか考え方が、各声部を明確に描き分け、しかも響としての一体感も維持する、という演奏技術の向上、というか、指向性によるものなのだろうか。それを知らず知らずのうちに耳がなじんでしまっている、というか・・・。
しかしフルトヴェングラーメンゲルベルクなんかは、昔感じていたくぐもったようなところは、それほど鈍化している印象もないし。
20年、30年を経て、他の演奏家ではなく自分の若い頃の感性と聞き比べてみる、というのは、いろいろな発見がある。
個々の演奏家、たとえばアドルフ・ブッシュ、レオニード・コーガン、ナタン・ミルシテインヘンリク・シェリングなんかは、昔、それこそ盤がすり切れるかと思えるくらい聞いていて、今聞くと、昔感じたのとは違う感慨、あるいは発見、自分の中の受け止め方の差、なんかを感じていたが、多人数による管弦楽だとまた違った感覚で、差を発見できる。
なかなか面白いものであるな。
こういうのを蓄積していくとけっこうおもしろいことになりそうなんだけど、さすがにそれだけの時間は残されていないだろう・・・、残念なことだが。