火星の月の下で

日記がわり。

○闘将・西本幸雄氏、逝く

日本一に輝くことなく…「悲運の名将」西本幸雄氏逝く
もう相当な歳だ、というのは、21世紀になってからときどき見るスポーツ番組での解説等で思っていたし、この日の来ることは覚悟はしていたものの、いざ、その日が来ると大きなショックである。
いろんなところが報じているので、どこでもよかったんだけど、阪急時代のことが載っていたので、スポニチから。
阪急OB涙 山田氏「日本一の名将」福本氏「今あるのはスパルタのおかげ」
長池氏と、加藤、山田、福本各氏の談話。涙なくして読めません。

長池徳士氏(阪急時代の4番打者)
残念です。今年に入って足立さん(光宏氏)、加藤(英司氏)と3人で西本さんの家におじゃました時は、お元気だったのに…。
僕が入団した時の監督で一人前にしてくれたのも西本さん。とにかく残念です。
加藤英司氏(阪急時代の主軸)
自分が今あるのは西本さんのおかげ。
選手時代だけでなく、評論家時代もゴルフなどをご一緒して、最後の最後まで可愛がってもらいました。
1カ月くらい前から、お体が悪いのを聞いていて覚悟はしていたけど…。言葉になりません。
山田久志氏(阪急黄金時代のエースで通算284勝)
プロ入りした時の監督で、仲人で、秋田から出てきた私にとっては厳しく、でも温かい親父のような方でした。
そして私にとっては日本一の名将でした。
福本豊氏(阪急時代の1番打者)
本当の父親のような存在でした。
西本さんが福本豊という野球選手をつくった。
今あるのは西本さんのスパルタ教育のおかげです。
最後に会ったのは今年の8月のゴルフコンペでした。天国で安らかに眠ってください。

西本監督というと、ワタクシもいろいろと思い出があって、どれを書いていいのか迷うけど、次の一つだけ。
・阪急初優勝(1967年)の後、日本シリーズ先発投手に米田。
「灰色」と言われ、就任一年目で阪急初の最下位を喫した西本阪急。
その3年後、有名な「信任投票事件」が起こる。
このとき、白票を投じた一人が、350勝投手、ガソリンタンク米田。
しかし、その翌年の初優勝で、西本は日本シリーズ第1戦の先発をこの米田に託す。
この初優勝の年の立役者は、20勝を上げてMVPにも輝いた足立。米田は18勝だった。
にもかかわらず、日本シリーズの晴れ舞台で、西本は米田を指名。
「灰色時代からの阪急を一身に背負ってくれていたから」というもので、結果的にこれがこのシリーズの敗戦を決定づけたことになる。
足立は2勝1敗、しかもその1敗が第2戦での0−1で、足立を軸にしていれば、シリーズの趨勢は変わっていたかもしれないし、それどころか巨人の9連覇すらなかったかもしれない。
しかし、当時の阪急ファンはそんな西本監督を支持したし、誇らしくもあった。
広岡達朗氏「“次の近鉄の監督はおまえだ”と誘われたことを思い出す」
もうひとつ、広岡氏の談話。

私もいろんな指導者に仕え、また見てきましたが、西本さんがNo・1の指導者です。選手は育つと信じ切って戦い続けた方で、今の指導者が見習わなければならない姿勢です。西本さんが近鉄監督時代に会うたびに“次の近鉄の監督はおまえだ”と誘われたことを思い出します。

故人に対するリップサーヴィスも幾分あるだろうけど、巨人の教えを唯一無二の絶対ととらえ、西本氏のスタイルとは正反対にある(・・・と見えた)広岡氏のことば「西本さんがNo・1の指導者です」・・・というのも、往年のファンとしては、嬉しく思う。
ともかく、西本監督の野球には、いろいろ多くの感動、喜びをいただいた。感謝の想いでいっぱいである。どうか安らかに。ご冥福を祈ります。合掌。