火星の月の下で

日記がわり。

◎熱血と金持ちと

アニメブログの方で少し出た話題。熱血少年の今昔。
一例として『ジュエルペットきらデコッ』で、熱血少年のレッドが道化の役回りになってしまってて、作品中のヒロイン格たるぴんくが、この正義感あふれる熱血少年レッドを、いかにも暑苦しい少年というとらえ方で(ただしルックスはかなり良い)、微塵も異性としての興味がなく、少なくとも恋愛対象としては見ていない、と書いた。
このことはもうこの作品に限ったことではく、ここ数年どころか、平成以降といっていいくらいの傾向に感じる。
もちろん、その間、熱血主人公が存在しなかったわけでもなく、そういった主人公が登場してきたアニメ、漫画はけっこうな数がある。にもかかわらず、もはやそれは主流とはなっていない。
しかし熱血正義感の少年主人公は、かつて王道かそれに近いモノがあった。
絶対数の差があるので、過去の比較は難しいけど、これはロボットアニメなんかが登場する前からあって、「正義」に対するある種の暗黙の了解みたいなものがあったのだ。
私が思い出すものとしては『ストップ!にいちゃん』『ハリスの旋風』といったあたりだけど、時代によってまた別の作品が出てくるかと思う。
それぞれに個性があるので「熱血」の一語でくくってしまうのは心苦しいが、作品性ではなく、モティーフという目でみて、ということである。
その後、いろいろと価値観の変遷、あるいは日本社会の富裕化などもあって、そういった大きな権力に立ち向かう熱血主人公、あるいは少し道をはずしたアウトサイダー、みたいな像ははやらなくなってしまった。
アニメブログのほうでは基本的に感想を書いているだけなので、テーマを突っ込んだり、普遍化してみたり、という作業はまったくしていないのだけれど、社会層との関連は、過去何度もいろんな人によって取り上げられてきたテーマである。
思うに、熱血主人公が主導権を持ち得ていたのは、社会全体がそれほど富裕化していない、もっと言うと、読者たる層の大半が貧乏暮らしをしていたから、というのがあるのだろう。
昭和30年代なら、まだ戦災孤児もいただろうし、貧しくて学校に弁当も持ってこれない、靴が敗れても買い換えてもらえない、そんな層はまだかなりいて、そういった少年少女達が読者だったからだ。
熱血主人公が、学園からロボットアニメ(漫画)に移っていったのは、社会が少しだけ富裕になってきて、さすがに親が戦争で死んだとかの層はいなくなっていたし、家族もろとも赤貧芋を洗うがごとき少年少女も少なくなった。いなくなったわけではなかったけど、多数派ではなくなった。
そして、貧乏でもなにがしかの小遣いを握りしめ、駄菓子屋で買い食いしたり、小銭をためて安物のプラモデルを買えるようになってきた。
熱血ロボットアニメの主人公が受け入れられた背景には、そういった層の存在がかなりあった。
熱血主人公が道化回りにされてしまう現在は、必ずしもネットの登場によって情報が均一化してしまっただけではなく、それだけ社会が富裕になってしまった、という側面があったのだろう。
賢い生き方がスマートであり、かっこいいものとなる。
それゆえ、泥臭さはむしろマイナス材料になっていく。
ロボットアニメや熱血主人公を愛するのは、かつて貧しい少年だったおとな達で、現役少年達は、もっと違う次元に飛んでしまっている。そしてもちろんこれは善し悪しではない。
金持ちに対する感覚も、昔の漫画、アニメとはずいぶん変わってしまった。
かつても金持ちに対する羨望は描かれていたけど、その羨望の感情にはいささか後ろめたい、読者の期待を裏切っているかもしれない、という影があったし、あるいはそういった羨望感情そのものが敵視されていたりもした。
学園ものの主人公が金持ちで何でもできる、というのは少数派というより稀少派で、大半が貧乏だったり、職人の師弟だったり、父親のいない子だったりしたものだった。
少女マンガにいたっては、金持ちというのが、外国人(白人家庭)だったことも多かったのだ。
だが今では、金持ちの子供が学園漫画の主人公というのが、「めったにない稀少な存在」ではなくなってきているし、ギャグ漫画なんかを入れるともって増えることだろう。
そして子供同士の世界を描くための「親の不在」が、かつては死別だったのが、今では出張中だったり、たとえ死別でもとんでもない資産があって普通に暮らせる、というような状況になってきている。
これって昭和30年代だと、悪役サイドの設定だったんじゃないだろうか。
ここでふと思い出すので、手塚治虫がスポ根マンガを描かなかった、という説。
厳密に言うと、初期の『タイガー博士』に始まって、大手塚もスポーツモノは描いている。
しかし、スポ根ではない。
もっと言うと、熱血学園主人公というジャンルでも、大手塚は消極的だった。
講談社の全集『グランドール』の後書きに、「途中おかしな空手場面がはいったりしてますが(中略)事実、こういった身近なサービスをすると、その時だけふしぎに人気が上がるのです。」
「こういうたぐいをぼくはヌカミソサービスと呼んでいます」などと書いたりしてている。
この箇所はSFについて書かれていたところなので、熱血学園主人公そのものについてではないのだけれど、熱血学園主人公に対して大手塚が少し距離感を持っていたのではないか、と思えたりする。
と、いつものように結論のないまま終わる。(笑)
これは日記なので、評論でも発信でもないことはいつも通り。