火星の月の下で

日記がわり。

◎『たまこまーけっと』に見る、南方の神性

かつて映画宝島の怪獣本で「なぜゴジラは南方から来るのか」という文があり、ゴジラモスラが南方からやってくる神性みたいなものが語られていた。
日本人の心の奥底に、どこか南方に対する畏怖と郷愁が渦巻いていて、宇宙や異世界、北方から来る驚異が「外部からの侵入」なのに対して、南方から来る驚異は「内部からの侵入」のような感覚を抱かせてくれる。
たまこまーけっと』は現在ワタクシの地域では第8話までが放映されているのだけど、第7話、第8話で話の中心にいる、チョイという少女がすこぶる良い。
南洋からやってきて肌が浅黒く、いかにも太平洋熱帯諸島を思わせる装束で日本の商店街(しかも皇都・京都)を歩きまわっているのだが、このチョイという少女に、商店街の人達や、主人公であるたまこ、親友のみどり、かんながからんでいく。
第8話では、そんなチョイに制服を着せて学校で授業を受けさせたり、「おしゃれ」と称していろんな衣装を着せたり、妄想したりするのだ。
なんとなく「皇民化政策」なんてことばも少し頭をよぎってしまったのだが、もちろんそんな意図があるわけではない。
ただ、南方から来た神の少女が、この弓状列島のかつての帝都・京都で、同じ歳くらいの少女達の着る衣装に身を包んでいく姿を見ていると、なにか心の奥底にある郷愁の部分と畏怖の部分がうまく感性の上で結実していくような、そんな感覚に襲われるのである。
チョイは南の島では「鳥占官」をやっていて、鳥と笛で占いをする。
もっともそれほど神秘の度合いを前面に出しているわけではなく、あてるのもほんの少し先の小さな災難とか結婚予想程度なのだが、神意の表れという解釈をはさみこめる程度の設定にはなっている。
商店街の人達が彼女に興味をもつのも、好奇心であり、親切心であろう。
たまこやその家族が面倒を見てやりたいと思うのも、彼らのヒューマニズム、というと少し大げさかもしれないが、優しさや暖かさなんかの発露であろうと思う。
だけど、チョイが南方から来た神の少女、という役割を担っている、この一点に置いて、我々の心の奥底に眠っている、原初の記憶のようなものをゆさぶりかけてくる。
その意味で、チョイを歓待しているということが、南方からやってきた神性を迎え入れているかのような、深い気持ちにさせてくれるのだ。
とまぁ、かなり大げさな文章になってしまったけど、あの褐色の肌と南洋の出自というのが、非常に印象的に生かされている、と思うわけだ。
そういやかつて『ネオランガ』なんて作品もあったなぁ、と思いつつ、今日の日記を終えておく。