火星の月の下で

日記がわり。

○情報化社会・考

「情報化社会」なんてことばは既に昭和40年代頃からあって、「爆発的に増える情報量に対して我々はいったいどうするべきか」なんてことを当時からいろいろ聞いていた。
しかし今日の目で見ると昭和40年代なんかいかにものんびりした、情報の絶対量なんて今の中学生でも処理できる量だった印象になる。
そんなことはあたり前の話で、携帯電話もなければメールもない、ネットもない時代で、摂取する情報量の大半が今では旧メディアの代表のようになってしまっているテレビ、ラジオ、新聞、雑誌だったのだから。
現在の情報量の多さに関しても、たぶんあと何十年か、1〜2世代ののちには「情報量の少なかった」のどかな時代として映ることだろう。
従って、通史的な縦の観点*1からではなく、同時代的な横の観点から、その情報量の多さは理解されなくてはならない。
こんなことを思ってしまったのも、情強、情弱、みたいなありふれた概念に思うところがあったからでなく、情報量が少ない方が有効な形がいつの時代でもあったのではなかろうか、と思うからである。
情報量が不足していることによって起こる失敗、悲劇はそれこそ腐るほどあるので、それゆえ情報量が少ない方が有効である、と考えられなくなってしまう。
もちっと具体的に書いてもいいのだけど、自分の身元が割れそうな恐怖も少しだけあるので、具体的には書かない。
日記なので、いつものごとく結論はない。(笑)

*1:つまり今日の視点、価値観で過去を見るのではなく、という意味。