火星の月の下で

日記がわり。

◎LOVELESS 第9話

先週、野球中継の延長にうっかりしてて、LOVELESS第9話「SKINLESS」を録り逃す。そこで困ったときのD氏、というわけで、豊中まで出向いてバックアップさせてもらう。どもありがとうごぜーました、D氏。
で、その第9話、第8話からの江夜+倭カップルとの話で、予定表を見ると、どうやら今週の10話まで続くようだ。
前回に劣らぬ濃厚な百合的劣情シーンの展開で、もうかなりハァハァものでございました。耳のとれた二人、はたして百合でとれたのか、それぞれ別に男がいたのか、考えさせられてしまいましたが、今回の「妊娠でもしたのかしら・・・私の子ども・・・」という一連の流れから察するに、男ではなく百合で耳と尻尾がとれた、と見るべきだろう。
それにしても凄い描写である。神無月のときにもうある程度の高みにまで達してしまったと思っていたけれど、ここ数話のエピソードの濃厚さは、既に十分比肩しうるところまで来ていると思う。
もちろんこれは、清明と草灯、あるいは立夏と草灯の関係の裏返しで、これをもって「百合アニメ」だ、などというつもりはないけれど、描写技術においては十分にその名に値するところまで来ていると思う。少なくとも、現時点で、この2人の関係がもっともひかれるからだ。
少し視点をずらして考えてみると、登場したカップルの中で、この2人が一番陶酔性が強い。少女同士だから、というのではなく、この「実現しない」傀儡愛、破局を予感し、確信するが故の傀儡愛を十分に自覚しているように思えること、これにひきつけられているように思う。
ミドリと愛、金華と銀華、奈津生と揺ニにはここまでの執着はなかったと思う。
われわれが傀儡愛にひきつけられるのは、それが破局すると知っていてなお、執着し陶酔するからである。それは「死」の魔力といってもいい。あるいはもっとも原初の意味における吸血鬼愛、と言ってもいい。吸血鬼は死体であり、その恐怖と美は、何も生むことが無いが故に我々をひきつける。
人間が異性の肉体を求めるとき、それは「生」の本能である。同性の肉体を求めるだけなら、それは擬似行為のひとつにすぎないかも知れないが、それが主と傀儡の関係になっていくとき、ピュグマリオンの愛が生まれるのだと思う。「死」への希求であり、マゾヒズムへの昇華ともなる。
今、愛、と書いたけれど、これは恋とは違う。恋というのは近代市民主義の産物である。一人の人格が他者の人格を対等なものとして認め、その上で求め合うものなのだ。愛とは上から下への一方的な流れである。*1 
カップルで戦いあう、ということは、そこにこの傀儡への昇華が容易に起こりうると思う。ここに感銘があるのだ。
マゾヒズムの進化性、近代性についても少し書こうかと思ったけど、アニメにここまで妄執しなくてもいいか。(^_^;

*1:もちろん、下から上への一方的な流れでもあるけれど、たとえ上から下、下から上への流れがともに存在していたとしても、それはまったく異種のものであり、交じり合わない。