火星の月の下で

日記がわり。

権力の魔力〜『ジェノアにおけるフィエスコの反乱』

入院中、ほとんど乱読、雑読と言っていいほどいろんな本を読んでたわけだが、必ずしも未読のものだけではなく、既読のものとか、翻訳ではまだ読んでなかったものとか、訳者を代えたものとかもいろいろ用意していた。
その中の一つが、シラーの名作歴史劇『ワレンシュタイン』岩波版である。
これは訳者を代えて読んだものであるけど、原書で読んだのも、別の訳者で読んだのも30年くらい前のことだったので、大まかな筋は頭にあったものの、細かいところとかはほとんど未読のような新鮮さもあった。
今回書きたいのはこの『ワレンシュタイン』ではなく、シラーの第2作『ジェノアにおけるフィエスコの反乱』である。
ワレンシュタイン』を読んでいて、昔はかなり強く感じた、『フィエスコの反乱』との共通性みたいなものをそれほど強く感じなくなっていて、むしろ、スペクタクルの面とか、個人の思惟が全体に届かないもどかしさとか、英雄をとりまく衆人の思惑の細かな違いとか、そして何より、若い頃にはあまり感じなかったピッコロミニの悲劇性とか、そういった方の印象が強くて、『フィエスコ』との共通性はそれほど感じなくなってしまっていたのだ。
『フィエスコの反乱』という史劇は、これまた若い頃けっこう好きだった史劇で、権力に抗して反旗を翻した英傑フィエスコが、一度権力を握るや、その権力の虜となり、今度は自分が部下から誅されるという、けっこう動的な劇であった。
ただ、シラーの作品の中では、疾風怒濤時代の息吹を伝える処女作『群盗』、古典主義へと足を踏み出した第3作・市民悲劇『たくらみと恋』の間で、それほど有名ではないのが残念だけど、このフィエスコとその部下達との心理の動きは若い頃かなり感銘を受けて、シラーの劇作品中、けっこう好きな部類だった。
歴史学者としても名を成したシラーだったので、この後も優れた史劇はいくつか書いているが、一代の英傑と権力とのありようという観点において、『ワレンシュタイン』と未完に終った『デメートリウス』には、フィエスコの影というか、後継たる要素を、なんとなく見ていた時代があった。
ところが今回、30年ぷりくらいに『ワレンシュタイン』を読み直してみて、大まかなプロットとしては似ているところもあるけど、その主人公のありようがかなり違うな、というのも感じてしまったのである。
つまり、フィエスコは、反骨の中から立ちあがってきた英傑であり、自ら超人たらんとしたようなところがある。
それゆえ、フィエスコの悲劇は、もちろん優れた社会性や思想性はもってはいるけど、今日的な目で見れば、極めて個人的、超人的な悲劇である。
一方のワレンシュタインは、その微細に描かれる周辺の民衆、兵士、教皇側、皇帝側の人間の思惑、そして彼らと乖離していくワレンシュタインの心等、個人悲劇の様相もあるが、はるかに社会劇である。
重みとしては『ワレンシュタイン』だけど、面白さとしては『フィエスコ』かなぁ、って気があらためてしてしまったのだ。
もっとも、シラー劇のすごさは、そういった面白さの背景に幾重にもはりめぐらされている、人間観察、社会監察の精華のようなものがあるので、決して『ワレンシュタイン』の方がつまらない劇だ、とかそういうものでもないけど、『フィエスコ』の面白さは、もう少し人の口にのぼってもいいのになぁ、と思ってしまうところだ。
ちなみに、シラー劇で一番好きなのは、いまのところ『メッシーナの花嫁』。
数あるシラー劇の中でも、これくらい裏読みができる作品はそうないと思う。