火星の月の下で

日記がわり。

△地図帳と児童文学

ときどきアニメの合間に「県名九九で県名を覚えよう」みたいな、CMだかスポットだかわかんないのが映ってるんだけど、どうも微妙な違和感を毎回感じる。
最近の子供は、地図帳とか見て、あれこれ旅の空想とかしないのかな?
自分の子供時代を振り返ってみると、けっこう地図帳を眺めているのは好きで、県名、外国の主要国、位置、首都、なんかは自然に覚えていって、小学校でもわりと普通にそういう会話をしていた記憶があるんだが・・・。
もっとも、子供の頃のことなんで、その後のAA諸国の独立とかにはちょっと対応しにくかったりしたことはあるんだが*1、それでもさすがに県名とか、県庁、その地方の代表的な特産物なんかについては、かなり自主的に覚えて言ったように思うだけに、ああしないと覚えられない層が一定数あるのかも、ということに対して、なんとも微妙な違和感を感じてしまうのだ。*2
同様に、児童文学の名作なんだが、これも読まれているのかなぁ、という気がかなりする。
というのは、かつての名作の版があまり進んでいなかったり、絶版になってたりするのをけっこう目にするからで、これについては、学校の推薦図書なんかの扱いとも関係しているのかも、と、ある程度原因については思いめぐらせるところではある。
つまり、政治的な書籍が児童文学として、しかもかなり左よりのものが推薦を受けやすい、という事情を感じるからだが、子供の間はなかなか自分で選べないので、この最初の接触で、政治的な刷り込みをされてしまう、というのはいかがなものなんかなぁ、という気がするわけだ。
昔から、一定数の政治的、左翼的文学の子供向けリライトはけっこう推薦図書になってはいたようだけど、それでももう少し選択の幅があったように思う。
時間のマジックで、単にそう思い込んでいるだけかも知れないので、機会があれば、小中学校の推薦図書の歴史、ここ10年とかっていう短いスパンではなく、昭和30年代くらいから、つまり私の子供時代の頃あたりからのものを調べてみたいな、とぼんやり思う昨今。

*1:今でも、南西アフリカ、ローデシア象牙海岸奴隷海岸黄金海岸、なんて名前の方がピンと来たりする。

*2:ネットの影響、学習塾の普及、という要因が大きいとは思うけど、それについては主旨からはずれるので、ここでは考えない。