火星の月の下で

日記がわり。

○ゴジラ、東京にあらわる(フォア文庫版)

香山茂による『ゴジラ-東京編・大阪編-』から、東京編ゴジラゴジラ第1作)のフォア文庫版を読む。
実は突発的に読みたいな、と思って書庫を探してたんだけど、整理が悪いのか『ゴジラ-東京編・大阪編-』が見つからない。
そこで、内容はほぼ同じ、といわれるフォア文庫版で渇きを癒す。
「東京ゴジラ団」の部分が小説だけ、というのは有名なんで覚えていたが、どうも映画の名セリフと、小説版で出てきたもの、出てこなかったものが混同してて、それなりに発見があった。
映画以上に小説版では「反戦」「核の恐怖」が執拗に追求され、「日本が世界に迷惑をかけた」なんていう表現も、今の時勢だとかなりデリケートな問題になってきている感もある。
だが、1970年以前の感覚だと、とにかくもう戦争はこりごり、というのが、戦後生まれの若い世代をも含めて、右翼左翼、保守革新を問わず、国民的感情だったので、香山が左翼だったとかって言う読み方は正しくない。
ただ怪獣映画『ゴジラ』として、後世の視点で語るとき、まず最初に怪獣映画、というのがあって、核実験によって蘇った、反戦反核のテーマ、というのがかなり後付けの知識のようになってしまっているところがある。
原作は決してそうではなく、怪獣ものと、反戦もの、というのは、同じくらいの重みがあった、ということだ、というのを改めてしっかりと思い起こさせてくれる。
愛する家族のいる者がかなり容赦なく死んでいくのも特徴的で、この辺も、戦後まだ10年くらいのときの感覚をうまく伝えてくれていると思う。
放送局のアナウンサーの断末魔のセリフが、大災害を伝える緊張感は伝わってくるものの、映画版ほどの芝居がかった劇的な別れのセリフがなかったり、映画版ではけっこう唐突に出てきた感じのあったデパートの炎の中で、母が子供を抱きしめながら「おとうちゃまのところへゆくのよ」という悲劇なんかも、文で読むとかなりの悲劇性をもって伝わってくる。
反面、芹沢博士などは、映像によるメリットがよくでていたんだろう。
小説版だと、片目というだけでなく、人相も相当な悪相になっていそうな印象だが、映画ではあの平田昭彦だったため、片目でもなかりの二枚目という印象だったが、それだけに芹沢博士の悲劇性はストレートに伝わってくる。
悪相の方が良いのか、二枚目の方が良いのかは、かなり微妙な問題ではあるだろうけど。
また、「平和の祈り」は、映画版、小説版、どちらでも良い効果になってるね。
主人公が尾形秀人ではなく、新吉少年になっているのもよく知られていたことだったが、少年と言っても既に高校を卒業し、山根博士の娘・恵美子と同い年だった、というのは、かなり失念していた。
文については、筋の進展を強調したためか、地の文による描写が少なく、場面転換も急で、ほとんど説明もなく移っていくことが多い。
怪獣小説家・香山茂の作としてはその点ではかなり物足りない。
なお、大阪編ゴジラゴジラアンギラス)も、同じくフォア文庫から出ているようなので、近々届く予定である。