火星の月の下で

日記がわり。

評論系同人の難しさ

上に関連して少し。
ワタクシ自身は評論系でもなんでもないんだけど、ときどき同人で質の高いアニメ・マンガ論評を読みたくなるときがある。
そんなとき、いろいろとあたってみて、感心したり、失望したりと、まあ素人の評論なんで、玉石混交やや石ころ多し、というのを楽しんでたりするんだが、頭の中にはいつも、80年代前半の名評論同人『究極』編集部のことがあったりする。
だが、今日、『究極のラム』『究極のジョージィ』などを「""」つきでググってみても、ほとんどひっかからない、というか、ひっかかるのは「究極のラム酒」だけだったりする。たまにヤフオクなんかでひっかかるときがあるが。
このあたり、ネット検索の時代的限界、みたいなものがあって、過去事項を検索するとき、90年代以降に誰かの手によって採録、あるいは言及されていることが必要で、そうでなければ、あれほどの評論誌であっても、ネットの海の中では「なかったこと」になってしまう。
同人マンガなら、その後誰かに拾い上げられてて検索にかかることもあるが、同人、文章系となると、稀少、といっていい。
もっとも『漫画の手帳』のように、今日まで続いているものであれば、また話は別だけど。
『究極のジョージィ』の表紙を飾ってたのが、あの赤石沢貴士さんだったり、『究極のラム』で取り上げられた頃から『うる星』の原画分析が盛んになったり、西島氏の魅力にみんな気づき始めたり、なんてことが起こり出した。
必ずしも『究極』だけのおかげではなかったとは思うものの、あの当時の精緻な評論活動、あるいは作画ヲタっぷりを見るには、かっこうの材料ではなかったかと思う。
当時は家庭用ビデオが登場し始めて、みんな必死でコマ送りしながら、食い入るように見つめていたのだ。
もちろん現在の評論誌にも骨のあるもの、精緻な分析を行っているものもあるけど、全体のマスが大きくなってしまったので、石ころも多く、そこへ到達するまでがけっこう一苦労。
加えて、商売っ気が今の方が強いので、文面でやたらセールスをかけたり商業的アピールをしてたり、あるいはプロ作家が入ってきたりと、昔のように「好きが嵩じて気がついたらこんなとこに来てしまいました」的な深さ、暗さは感じにくくなってしまった。まぁ、それでもときどきとんでもないものに出会うことがあるけど。
しかしそんなことを言ってる場合じゃないな、はやく原稿描かないと。(笑)