火星の月の下で

日記がわり。

○狂気が文学として成立するために

ちょっと簡単な覚書。
狂気が怪奇や恐怖の舞台だけで満足していては、それは娯楽小説の域から抜け出せない。
また、狂気が社会的な抑圧表現としてしか描かれないのであれば、それは政治パンフレットの域を出ない。
また、単なる医学カルテや犯罪調書に陥ってしまったものを見ても、我々はそこに創造芸術の精華を感じることはないだろう。
組み立てられるものであれ、崩壊していくものであれ、狂気が文学たりうるためには、まず個人の脳髄の奥深くへと切り込んでいかなければならない。
また、幻想が文学として成立するためには、そこに恐怖しか見ないもの、夢まぼろししか見ないもの、逃避しか見ないものは、単なる娯楽である。
「ファンタジー」という日本語と、幻想とを区別したい、と思う欲求の一つに、封建的な恋愛夢想が入ってくるから、というものがある。
ハッピーエンドの恋物語が語られれば、それはその瞬間、幻想を損なってしまうものである。
リヒテンベルクのようにはなかなかうまくいかないが、自身への警句として、簡単に。