火星の月の下で

日記がわり。

○ヲタク≠オタクのピース

海洋堂社長 「最近はオタクが “軽く” なってきてる。 恥ずかしいはずのスケベな美少女フィギュアを堂々と買う」
オタク論議が延々と出てたので、フィギュア記事とは関係なく、思うところを少し。
・ヲタクは自分を隠す。
個人的にはこれがかなり重要で、むやみやたらと人に自分の趣味を見せない、かぎとられない、ということ。これができてるかどうかが、ヲタクかどうかのライン、と最近感じている。
もちろんこの中には、同好の士に対してはそうではない、というのが入るわけだけど、当然、その同好の士か否かを的確に、かつ鋭敏にかぎとる嗅覚が必要、ということでもある。
町中で堂々とヲタ知識をしゃべっている云々、ということも、この観点で見ると、ヲタクとは言いかねる。
実在が、リアルが有名である、というのは、実は恥なのだ。
・迫害の歴史を知っているか。
ではなぜ隠れるか、というと、それは迫害の歴史を体験しているから。
若い世代だとピンとこないかもしれないので、言い換えると、体験はしていなくても、これは自分にとって危険だ、と感じる感覚が備わっているか、とも言える。
つまり、日常生活で努力するのも、この趣味を一生続けていくため、人に「平凡な人、平均値な人」と思われるように努力するのも、その趣味を一生続けていくため。
その知識に感動されたり、チヤホヤされたりするため、というのは、実はこの感覚の欠落である。
・蔑称だったヲタク。
何度も言われているが、最初は蔑称だった。それが今ではなんか別のステイタスみたいに扱われるようになってしまい、そこにいろいろと矛盾、危険性がでてきた。
別のヲタ系ブログで「どうしたら立派なオタクになれますか」みたいな質問をもらったとき、まったく別世界の人間と話をしているような感覚になった。
ヲタクは、望んでなるものではなく、なってしまうものなのだ。
・オタクでない者が「オタキング」を名乗ってしまった(もしくは目されてしまった)悲劇。
オタキングがでてきたとき、何かの冗談だと思った。
だって、ゼネプロ時代からその人物、言動は知ってたが、アニメ、ゲームに全然情熱をもってなくて、典型的な実写オタだった人物が、一人歩きし始めた頃の「オタク」を僭称してしまったのだから。
それ以前には、特撮、SF、怪獣マニアも、仲間だという感覚はあったのに、あれの登場以後、特撮、SF系がアニメの敵に見えてしまった時期が一時期あった。今はそんなこと、もうないけど。
他にもいろいろあるけど、パッと思いつくのはこのあたり。
「自分を隠す」というのは、匿名を貫く、メディアにさらされない、ということで、その匿名の方が一人歩きしてしまうのは、ある程度仕方ないかな。
そう妥協してしまうのも、以前のファナティック世代(昭和初期から戦中生まれの、団塊に少しだけ先行する世代)とは少し離れているからかもしれない。あんまり世代でわけて考えることはしたくないんだけどね。