火星の月の下で

日記がわり。

『あしたのジョー』幻のラスト

あしたのジョー“幻のラストシーン”あった
実写映画化の話題作り、と行った面もあるんだろうけど、名作を切り売りしていっているようで、なんか嫌な感じだ。
梶原一騎氏の実弟真樹日佐夫氏の発言として、

「梶原が自分の原稿を電話で伝えると、ちばさんは『これだけ長く15回戦の試合を描いてきたのに、いくら何でも段平の“ケンカに勝った”はないでしょう』と反論し、ケンカになった。梶原は『じゃあ、勝手にしろ!!』とかんしゃくを起こし、ちばさんは『やらせてもらいます!』と電話を切った。それで、あの結末になった。ちばさんが正解だったとは思うんだけれども、それは結果論。梶原の頭の中ではジョーを死なすつもりは毛頭なかったんだよ」

というのが載っているんだが、ワタクシもちばさんの意見に賛成、というか、この逸話を読んであらためてちばさんの漫画家センスの確かさを感じとった。
正直いって、連載時にリアルタイムで読んでいた者として『あしたのジョー』はそれほど好きじゃなかった。
当時は劇画の全盛時で、手塚派の児童SFマンガの流れがかなりすみっこにおいやられていた時期で、一応手塚派の末席だったワタクシとしては、社会派、リアル指向の劇画手法にはどうしてもなじめなかった。
ただまぁ、ちばさんを劇画派にしてしまうのはかなり乱暴だけど『あしたのジョー』という作品は、劇画派の真ん中に近い位置にいたろうと思う。特に力石が死んでからは。
そんなわけで、『ちかいの魔球』や『紫電改のタカ』のちばさんが好きな者としては、あの作品をリアルタイムで認める気にはどうもなれなかった。
ただ、それでもあの作品の情熱、構成、といった自分のセンスとは違う部分での水準の高さは好き嫌いとは関係なくわかったし、認識もしていたつもりである。
自分の陣営ではないけど、嫌いということもなかった、というのが正直なところかな、実際連載時、しっかりと読んでたし。
あのラストはあれで正解だと思うし、時が経っているってこともあるけど、あれ以外のラストを提示されるとちょっと不快感が立つ。
そんな中で、実写化されるという。
真樹日佐夫氏が片棒を担がされたわけではないと思うけど、なんか話題作りの商売っけ、みたいなものも、チラチラ鼻につくところかなぁ。。。
死なずに廃人になって、どこかの施設で醜く生き残っている、そしてそこにはリベラがいて、葉子がそれを見て涙を流し、そして孤児の仲間達が言葉を失う・・・そういうのもたしかに面白そうではあるが、やはり抵抗があるなぁ、あの作品を作り替える、という意味で。