火星の月の下で

日記がわり。

◇高校サッカー選手権

第89回全国高校サッカー選手権は、滝川第二が5−3で久御山を破って初優勝。
戦前16回優勝の兵庫代表が戦後初優勝、1938年の第20回大会の神戸一中(現・神戸高)以来の優勝、臨時大会だった第25回大会の神戸一中の優勝から数えても、75年ぶりの優勝、ということで、なぜかくも戦前の一大サッカー王国だった兵庫が低迷していたのか、ということに少し考えてみた。
戦前、大正時代からのスタートを誇る3つの中学生球技*1、野球、ラグビー、サッカーだが、最初から全国大会として機能していたのは野球だけで、ラグビーもサッカーも最初は実質近畿大会で、ラグビーに至っては、近畿どころか京都大会だった時代でもあった。
ラグビーにおける同志社中5連覇という記録の中には、参加校2校のときの優勝も含まれており、連続優勝としての記録は、平成の啓光学園の4連覇の方がはるかに意義あるもの。
サッカーも最初は近畿大会で、ラグビー同志社以上の7連覇を御影師範が達成していて、戦前11回の優勝は、今に至るも最多優勝。ただし、師範学校という制度がもうないため、これはもう伸びない記録なので、将来この記録を抜く学校はでてくるだろうとは思うけれど。
しかしラグビーと違い、一応全国大会として機能させよう、という意図はあって、そのあたり、Wikiに書かれている事項はかなり間違っている。
そっちに入るとかなり長くなるので割愛するけれども、ともかく、戦前、ラグビーは京都、サッカーは兵庫が王国を作り、君臨し続けた。
22回の大会のうち、優勝が16回。これは主催の日テレは通算記録としてカウントしていないが、未だに全国最多優勝県である。
ではなぜ戦後、まったく勝てなくなってしまったのだろうか。
思うに、野球やラグビーのように、私立学校が力を入れなかったからではないだろうか。
旧制下で強かったが、新制下でまったく勝てなくなった地域、というのは往々にしてこの傾向があって、野球では戦前から私立と県立が拮抗していた兵庫も、サッカー、ラグビーでは文武両道を標榜する県立中学の全盛。
戦後、新たにスタートした地域、特に私立の絶対数の少ない県などでは、私立も県立もあんまり関係なかったろうけど、なまじ戦前に強豪としての伝統があると、強化ということについて、いろいろと精神的な足かせができてしまったのではないだろうか、と思う。
なんせ、ワタクシの学生時代まで、兵庫の強豪は県立神戸高校だったのだから。(優勝こそなかったが、戦後も全国のベスト4、ベスト8までは行っている)
滝川第二は、建学当初から滝川のスポーツ部門を受け継ぐ、ということで、かなりスポーツに特化して力を入れていたので、その意味で、今までの県立主導だった強化とはかなり違う効果がでてきたのではないかと思う。
東の報徳などもそうだが、私立といっても、他府県出身者はかなり少ない。
本来もう少し早く担うべきだったスポーツ私立の存在が、私立の絶対数も多く、歴史的にも全国最古グループの県であるにもかかわらず、あまりそういう流れにならなかったことが、これだけの空白を招いてしまったのではないか、と思う。
ともかく出身県の代表だし、第二ができる前の「滝川高校」へも小中同窓生の何人かは進学しているので*2、母校でこそないが、嬉しい全国優勝だった。
しかし監督と選手優勝コメントを聞いてると、どっちも相手の言うことを聞かずにぶつかった、わがままだ、と言い合ってるあたり、ちょっと面白いチームワークだな、という感じかもね。

*1:現在の高校球技

*2:中学卒業時に、まだ滝川第二はできてなかったので