火星の月の下で

日記がわり。

◇ジュサン中は、昭和40年代頃、既に存在していた

大人になって読み返したらスゴかった 「英文標準問題精講」
一読「フッ・・・まだまだ甘いな」と思ってしまった。(笑)
『英文標準問題精講』くらいで驚いているようだと『思考訓練の場としての英文解釈』とか、伊藤和夫の『教室』シリーズなんか読んだらひっくり返るんじゃないだろうか。
「受験参考書に悪魔がいる」・・・というのは、既に昭和40年代にはささやかれていたことで、『思考訓練』なんかはわりと後期に出てきた魔書だったけど、それ以前にも、既に現在では絶版になってしまった、高い評価を受けつつもマガマガしさを内奥にくすぶらせていた稀書、魔書の類はけっこうあったのだ。
そこらへんについては去年一度書いたので省略するが、その時書いたときには、現役書籍、というくくりをもうけていた。
そのくくりがなければ、もっと網羅できるのだ。・・・書庫を探し回るのがめんどいので、やらんけど。(^_^;
総じて、語学テキストと理科にその傾向が強かったように思う。
現代文とか社会科関係の方が、デムパゆんゆんなのが出てきそうな印象なんだが、「受験参考書」というタテマエがあるので、国語や社会科だとそれがあからさますぎて淘汰されてしまうのだろう。
ただ、現在の大学受験参考書、とりわけ英語がひどく味気なくなっているのは確かで、これは昭和の終わり頃から、3大予備校の講師が「受験テクニック」を前面に押し出してきてからその傾向が強まったと思う。
予備校講師の書いたものが全て悪いとは言わない。
中には『権田・地理』のように、テクニックを語るふりをして、魔の系列に連なる可能性を秘めていた参考書もあるので、あくまで全体的傾向として、なのだが、どうも問題文が細分化され、技術解説の対象になりさげられてしまったように感じる。
もちろん、素材として扱われるのが入試問題なので、大学側の知性の低下、という側面もあるんだろうけど。
個人的には、予備校の名を冠した受験参考書は「消費材」で、研究者やその道の専門家が著わしたものは「書」であると思っている。