火星の月の下で

日記がわり。

◎幻想文学と社会主義

作品論ではないので、幻想文学タグはつけずに書く。
ハイファンタジーや娯楽小説としての怪奇幻想ものに違和感を感じるのは、それが保守的な社会観、男女観に支配されていて、社会と個の関係をまったく見ていないか、見ようとしないから。
マルキシズムイデオロギーとしては幻想の敵だったし、幻想からの逃避だったけど、表現技術としてはそれなりに功績はあった。リアリズムは、それが「外から内へ(印象主義)」であれ「内から外へ(表現主義)」であれ、それを伝える技術を我々に残してくれたからだ。
主軸は心の内奥であっても、その手法は外との関係を無視できず、その描写が不完全であると、すこぶる幼稚に見えてしまう。
幻想を描く者は、同時に個と社会の対立を的確に描ける者でなくてはならない。
それは決して社会主義への敗北、追従ではなく、利用である。
優れたメルヘン劇の表現者であったゲルハルト・ハウプトマンが、同時に優れた群衆劇の作者であったことを忘れてはいけない。
ヴェデキントしかり、ヴェルフェルしかり、ゲオルク・カイザーしかり。
幻想文学を希求する者の何割かが、こういって思惟、思弁を経ずに、生理的快感だけで耽溺してしまっている。
彼らの浅薄さが、我々幻想文学学徒にとって、迫害の材料を与えるのではないか、という危惧は、実は70年代頃くらいからあった。
きわめて逆説的な言い方になるが、社会主義的描写が可能てない人間は、結局のところ幻想を描くことも、幻想を識ることもできないのではないだろうか、と思う今日この頃である。