火星の月の下で

日記がわり。

◎SF考

言ってみれば、当たり前のSFだろ?でも、今、こんなSF無いんだぜ駄文ニュースさん経由)

今後は、次の事項に該当するSF小説・漫画・アニメの科学・技術考証なら引き受けよう。

ということで、この人の語る「当たり前のSF」がズラズラ上げられていて、その中には納得できるものもあるし、門外漢なのでよくわからんところもあったのだが、ひっかかるのはこれ。

・人間ドラマは入れない。
 ・未熟な主人公が単純なミスをしたり、引きこもったりしない。
 ・権力争い、訴訟、裁判、特許などの紛争を入れない。
 ・政治、予算獲得など入れない。
 ・妬み嫉妬や恋愛感情を入れない。
  (多少のラブコメは良いか・・)

・・・人間ドラマを入れないって、そんなの読んでて面白いのだろうか。
いや、そうあることが面白いと、少なくともこの人は思っているらしいので、そういう層もあるのだろうし、そういった趣味趣向の差とか違いまでは否定する気もないのだが、少なくともワタクシはジャンル、媒体の如何に関わらず、人間が描けていない作品は読む気が起こらないな。
つまりワタクシはこの人の語るようなジャンル観からは扉を閉ざされている、ということになるのだろう。
もちろん娯楽小説ではなく純文学にまで広げれば「読んで面白くない名作」は山のようにあるし、面白いかどうかなんてのは二の次だろう。
以前ノーベル文学賞のところで少し書いた「感動だの面白さだのは、文学にとって重要なファクターではない」という面も確かにある。
人間ドラマなど描かずに、社会革命に終始した劇やプロパガンダ劇で文学史に輝く作品も数多くある。
しかしSFをそういったジャンルに、もしくはその近縁に入れてしまっていいのだろうか。
もちろんこの人の言っている「人間ドラマ」というのが前の段で、SFの本筋とは関係のないところで繰り広げられる対人コミュニケーションや折衝という点に置いているのはわかるし、確かにそういう場違いなものを入れられたときの腹立たしさはことさらSFに限ったものでもない。
しかし、である。人間ドラマは不要、とまで範囲を広げてしまうと、それただのアイデア解説書になるんじゃないの・・・と思ってしまうわけだ。
くわえて日本には(米国にも)欽定の言語アカテミーに相当するものが存在しない。
そういった国では、著述されるほとんどが資本主義の洗礼を受ける。
個人が発表のあてもなくコツコツ書いていたものが死後に評価される、みたいなケースもないわけではないので「例外なく全て」とまでは言えないが、「ほぼ」全て、と言っていいくらい、大衆評価が待っている。
つまりここに書かれていることの正しさは「じゃあそれを遵守して売れるの?」・・・という点に帰着してしまえそうな気がするのだ。
それって自縄自縛って言うんじゃないのかなぁ・・・。
SFではないジャンルで、ファン、もくは愛好家からいくつか聞いたことばを思い出す。
レースクイーンなんて邪魔だ」・・・大昔、とあるカーマニアが深夜放送で発したことば。
新車の性能やらデザインやらを見に来た、そこにワクワク感を求めてきたのに、RQのせいで気分が散漫になる、あれはやめろ、というものだったが、深夜放送でのパフォーマンスといった側面はあったにせよ、本筋とは違う「夾雑物を入れるな」という感情では近いものがあるように思う。
あるいはロボットアニメで「未成年やアイドルを乗せてヒーロー、ヒロインに仕立てるのはうんざりだ」というようなこともしばしば聞く。
夾雑物を入れずに、本筋に力を入れろ、というのはわかるんだけど、同時に「それやると売れないよ」というのもついて回る。
だからこの人の言わんとしていることは感情のレベルではわかるんだけど、それを
「人間ドラマは入れない。」
・・・と普遍化してしまうと、原理主義者と何らかわんなくなってしまうんだがな。
ここでワタクシの物語観を書いてみたのだが、同様に普遍化の傾向があったので自主規制。
売れなくても主義主張のしっかり通った作品が、少部数でも世に出られるような社会になるといいのにね。(皮肉じゃないよ)