火星の月の下で

日記がわり。

○1974年のドラゴンズ・ラインナップは覚えやすい

週の後半はなんでこんなに眠いのだろうか。
取り立てて何もなかったので、ぼんやり頭に浮かんだ1974年の「燃えよドラゴンズ」のことでも書く。
ドラゴンズ・ファンではなかったし、親会社が嫌いなのであんまり良い印象のないチームなんだが、それでもジャイアンツの10連覇を阻止したときのラインナップは明確に覚えている。
これは間違いなく板東英二が歌った初代「燃えよドラゴンズ」のおかげで、
♪ 一番高木が塁に出て、二番谷木が送りバント
というあれで、あの曲は当時ちょこちょこあったスポーツ系コミックソングの中でもメロディラインが覚えやすかったこともあって、名古屋以外の土地でも大ヒットした。
そんなわけで、ファンでも何でもないのに当時のドラゴンズの打順がけっこう頭にしみついていたりする。
この中で忘れがちなのがトレードでやってきた二人、三番井上と八番広瀬。
♪ 三番井上タイムリー、の井上弘昭選手については、その後同姓の選手がいたせいもあってちょくちょく混同するのだが、それでも優勝した翌年、広島が初優勝したときに1975年度のMVP山本との激しい首位打者争い、特に終盤での死球を「死球じゃない」と打者側から抗議したエピソードなんかは有名で、そっちの方でも記憶があるのだが、1974年度の優勝時・三番バッターとしては記憶がうすい。まぁ、たぶんワタクシがドラゴンズ・ファンではなかったからだろう。
♪ 八番広瀬がスクイズバント、の広瀬宰選手の方はほとんど覚えていない。
むしろ当時プロなのに堂々とスクイズをやってくるのは与那嶺監督率いる中日くらいだったので、むしろ「スクイズまでやるチーム」としてのインパクトの方が大きく、広瀬宰選手、という名前の方にはあまり印象がなかった。
52歳という若さでお亡くなりになられているので、そのあたりも少し関係しているのかもしれないし、ドラゴンズでの在籍が3年だけだった、というのもあるのかもしれない。
関西で「広瀬選手」というと、監督までやった南海の広瀬の方がまず最初にくる名前でもあるしね。
当時の投手陣、エースが星野仙一だったのだが、その後に
♪ 鈴木、竹田の快速球、というのがある。
鈴木というのは鈴木孝政選手のことで、晩年というか後半生においてスローボールを駆使する先発投手、という印象が強くなってしまったが、ワタクシなどは1974年の優勝した時のとんでもなく速い球を投げていた頃のタカマサの方が印象が深い。
当時千葉・成東高校から入団して2年目のほぼ新人で、もっぱらリリーフだったのだが、とにかくむちゃくちゃ速かった。
少なくとも同じようにリリーバーから先発になった星野仙一よりも速かった印象で、ドラゴンズでは小松投手が登場するまで歴代で一番速い投手じゃないか、なんて思っていたものだった。
後年肘を壊してからは軟投派になり先発転向して1984年の優勝にも貢献している。
速球投手としての寿命は短かったけれど、軟投派に転向してからの成功例としても記憶されていくことだろう。