火星の月の下で

日記がわり。

○好みの変化が対象物の変化に感じてしまう

高校野球が台風で延長になり、日程的にかなりきつくなるんじゃないか、と憂慮されるのだが、どうも昔ほどには高校野球が楽しめない。
プロ野球に関してはあの江川事件から休息に熱を失ってしまったが、高校野球については、その背景にあるいろいろと生臭い話を聞いても、全国大会そのもの興味はそれほど萎えなかった。
しかしこの10年くらいからあまり面白く感じられなくなってしまっている。
高校野球を金儲けの道具にする背後の思惑とかを知ってしまった、とかっていうもっともらしい理屈もあるけど、知っていてなおしばらくは興味もあったので、たぶん感情的にそのあたりが理由ではなく、単にワタクの中の熱が冷えてしまっているのだろう。
したがってこれは自分の内面の問題だろう。
ところが、ネットの発達により情報量が拡大してしまったため、野球の内実、あるいは高校野球の内面が変質してしまったため、という錯覚に陥りやすい。
実際、「昔の高校野球は良かった」と嘆く年寄り連中(実際の年寄りだけでなく、精神的な年寄りもふくめて)はそのあたりが識別できてなくて、自身の老化なのに高校野球が劣化したことにして置き換えたがる人をけっこう見かける。
もちろん神聖視する必要はないし、娯楽の一つとして楽しめば良いと思うのだが、その変化を指摘されると「神聖視している」と置き換えたがる連中もいる。
情報量の増大とか内面の変化はあるにせよ、中継なり球場なりでワクワクしながら見ていた「観客側」の楽しみとか喜びとかは、昔も今も大差ない。
今の高校野球が全然面白くない、手垢に汚れて薄汚くなってしまった、と感じている大人もいれば、かつての我々のように毎日、毎試合が楽しみで、ワクワクしながらテレビやネット中継にかじりついている若者だって多い。
単なる個人の内面の変化(もしくは老化)にすぎないのだ。
というわけで、興味そのものはうすれているし昔の個人的経験とはまた違ったものになってはいるけど、それなりには楽しみなのかなぁ、と最近は思わなくもない。そんなわけで、ちょっと過去に書いたことと矛盾するかな、と思いつつも、現状の感想として記録しておく。
ワタクシの頭の中では、まだ下関商の池永や岡山東商の平松なんかの若々しく躍動するイメージが残ってるし、昭和44年の松山商-三沢の決勝戦引き分け再試合や、昭和48年の広島商のサヨナラスクイズなんかはまるで昨日のことのように記憶に残っている。