火星の月の下で

日記がわり。

純ドイツ主義の幻影

最近メンデルスゾーンをよく聞いている。
若い頃はもっぱら管弦楽曲、とりわけ『フィンガルの洞窟』と『第3交響曲』『第4交響曲』が好きでよく聞いていたが、20代になってからは、ピアノ・トリオや弦楽四重奏といった室内楽に興味が移り、最近は宗教音楽を含め管弦楽曲なんかもまたポチポチ聞き出している。
この時期の音楽家としては抜群の管弦楽技法を持った音楽家、という印象で、オーケストレーションの音色の響かせ方はなかなかすばらしい。
私の若い頃、高度経済成長の昭和30年代後半〜40年代にかけてだけど、レコード芸術や音楽の友誌なんかの評論関係ではメンデルスゾーンハイドンはかなり下に見られていた作曲家だった。
一流ではあるがその中では下、みたいな雰囲気で、じゃあ誰が上位に来るかというと、ベートーヴェンとヴァグナー、という今ではちょっと考えられないようなカースト意識みたいなのが評論家諸氏の間にあった。
ロマン派の音楽では、保守的な作風の人達はかなり下に見られて、かろうじてブラームスくらいがなんとか評価されていたけど、それでもベートーヴェンヴァーグナーはもとより、ブルックナーマーラーよりも下に見られていた空気があった。(あくまで日本の評論家においては)
まぁ、誰のことを言ってるか、というのは当時の空気を知っている人ならわかると思うので個別名は書かないけど、演奏家においてもその傾向は顕著で、所謂「正統ドイツ主義」がまず第一で、その次に国民楽派、特にスラブ系の重厚長大な音楽、なんかが高級であるかのように語られていた。
音楽の感性、抒情といった面ではモーツアルトはさすがに評価されていたけど、小林秀雄の有名なエッセイにも出てくるように、執拗に短調音楽ばっかりが取り上げられていた。
そのほかにもいろいろあったけど、思潮で音楽を聴いているようなところがプンプン立ちこめていて、どうにもついていけないことが多く、それでレコ芸の購読はやめてしまった。
もとより、十代の後半からどんどん室内楽に引かれていったので、巨大管弦楽を響かせることこそが高級な音楽だと思っている御仁とはどうにも意見が合わなくなる。(意見と言っても、所詮は一読者にしかすぎないのだが)
ベートーヴェンはともかく、ヴァーグナーとかブルックナーとかってのは、あまりに胃にもたれるのであんまり好きじゃなかったこともあって、若い頃は日影の音楽が好きなのかなぁ、という鬱屈した気分にもなった。
もちろん好き嫌いなんて個人の勝手なんだから高級だのなんだのってのはどうでもいいはずなんだけど、やっぱり私もその頃はまだ幼かったのだろう。
今となってはブルックナーなんかもそう悪くはないな、とは思ってるけど、とてもブラームスモーツァルトより上だとは思えない。(ここでいう上は、高級という意味の上ではないので念のため)
かつてはマイナーすぎてレコードすらも出ていなかった音楽が、普通に聴ける、という状況で、自分の耳こそが頼り。
その意味では良い時代になった。
レコ芸なんか購読していた頃なんて「3Rと3L」の6人なんて、かろうじて名前を知っている程度だったしね。
そんなこともあって、レコ芸がAmaz0nの書評なんかで叩かれていると、ちょっと屈折した笑みがもれてしまう今日この頃である。