火星の月の下で

日記がわり。

『ザッフォオ』のメリッタ

グリルパルツァーの『ザッフォオ』を実吉訳版で読む。
岩波の古い版を古書点で購入してきたもので、訳語がかなり古いせいか、昔Reclamで読んだものとはまるで別物のような錯覚に陥る。
それはともかく寝っころがりながら読んでると、奴隷少女メリッタの魅力が半端ないね。
描写としてザッフォオの芸術の愛と肉の愛との相克が強烈で、セリフ量もそれほどないため主役2人の間で埋没してしまいそうになるんだけど、年齢が16歳、それどころか15に満たない、というセリフがザッフォオとの間でかわされてくるあたりから、異様に妖しい光を放ち始める。
展開としては徹頭徹尾ザッフォオとファオンの話になっているので普通に読んでるとメリッタの態度がかなり中途半端に感じる。
ファオンがそれこそザッフォオを敵に回し命を賭けてメリッタを自分のものにせんとしている、そしてそれに呼応してついていったのに、最後のところではザッフォオには敵意を抱かず、むしろ昔の主人として恭順ともとれかねない態度を示す。
劇的緊張という点では少しものたりなくも感じるのだけど、この素材がレスボス島のサッポーであることを思うと違う想像が頭をもたげてくる。
メリッタも最初第一幕で、ザッフォオの帰還に際してファオンを認めるやその男性性、美しさに見ほれている。
ファオンが連れだしたときも本人の言葉としては明言されていないけど抵抗もせず、さりとてホイホイついていったようにも見えず、ということで、あくまで主役2人の激しい情熱の材料にされているにすぎない感がある。
ファオンのたくらみが消えて、ザッフォオの裁きの前に引き出されたメリッタが「ああ、おこっていらっしゃる」と語りメリッタをかばおうとするファオンをよそめに、ザッフォオへの献身と愛情を語り、どんな裁きでも受ける、とまで言い放つ。
ザッフォオの年齢は書かれていないけど、史実での年齢がわからないのだから、劇的効果としての年齢を考えると、20前後から半ばだろうか。まだ老いるところまではいっておらず、咲き乱れる美しさを若者の心を射止める程度には保っている時代。
そしてこれから咲きほころうとする少女メリッタ。
主人と奴隷であり、メリッタのことばによると「母と娘のよう」でもあった二人。
これは劇の主軸であるザッフォオの芸術と肉の相克という以上に、メリッタの少女からおとなの女への愛とも解釈できそうな余地を残している。
もちろんこれは妄想である。
劇的効果を思うと、メリッタの中途半端さはザッフォオへの同情でもあり、かつファオンの男性原理への警告にも見える。
だが作者の意図がたとえそこになくても、この可憐な14歳の少女が異性への愛に引かれながらも結局は年上の同性のその美しさ、その偉大さの前にひざまづいていく姿が浮きあがってしまうのだ。
決して主役ではない、それどころか周辺人物としても奴隷執事たるラムネスのセリフ量よりもはるかに少ないのだけど、妙にひかれてしまう人物像でありますな。