火星の月の下で

日記がわり。

○そんな恐い橋は渡れない

学生時代、たぶん高校の世界史の教諭からだったと思うが、
「橋を渡るには幅30cmもあればじゅうぶんだ、でもそんな橋は恐くてわたれない」
ということばを聞いたことがあって、以来、その周辺事情にも意識して気を配るようになった。
作品鑑賞するときに、予備知識で武装せずに素のままで鑑賞すること、が美徳のように語られることがある。
それは一面において間違いではないし、言わんとすることはとてもよくわかる。
他人の意見等に左右されて、自分の目で見ていない、読んでいない、体験していない、それはまことにもったいないことだし、それによって作品に対してその味わいやらを見失うこともあるし、なによりも自分という個性が欲している真に適合するであろう何かを見過ごしてしまうことにさえなりかねない。
従って全ての作品について予備知識が必須とは思わないし、あってはいけない場合だってあるだろう。
しかし、である。
現行作品についてはまだしも、過去作品の鑑賞、あるいは調査として調べるときには逆転してくるのではないか、とも思う。
ここでいう予備知識とは、他人の意見、という意味ではなく、その時代背景とか同時期状況とかその時点での制作者たちの立ち位置等といったところで、周辺状況と言ってもいいかもしれない。
モノクロ映画やサイレント時代の映画が好きで、劇場でのリバイバルだけでなく、DVD、古くはVHSやLDなんかでもいくつか鑑賞していたが、そういった前後状況は知っててあたりまえだと思っていた。
もちろんそれは自慢したりひけらかしたりするものではなくて、たとえば翻訳のない海外作品を読むのにその言語が必須である、といったような、ツール的な役割くらいの意識であったわけだ。
ところがネットの発達、あるいは昔の映画のDVDなんかが著作権切れで安価で購入できるようになってしまったこともあってか、Amaz○nのレヴューとか見てると酷いのがかなりある。
1920年代や30年代の作品に対して、今の映画鑑賞としての感想をつけていたりで(千差万別なので個別には書けないけど)見苦しいことこの上ない。
ひどいのになると「よくわからなかった」なんてのもある。
金出して買ったのにワケワカメだったら、そりゃあ文句の一言もいいたくなるだろうけど、そういうのに限って「Amaz○nで購入済」の印がない。まぁ、よそで買ったんだろうけども。
前にも書いたと思うけど「自分の頭が悪くて理解できませんでした」なんてことはいちいち書かなくてもいいのではないか。それを仕事にしているわけでもないはずなんだから。
いいとこ難しかった(これもあまり良い感想とは言えないだろうけど)というくらいではないか。
少なくとも過去作品の鑑賞を楽しみたいと思うのであれば、そういった周辺状況を調べておくのが最低限のことなんじゃないかな、と思うことしきりで、もしそれすらも面倒である、と感じるのであれば、それはその人がその作品に向いていないのだから無理して鑑賞しなくても、と思ってしまうわけなのだ。
たまたま誰か有名な人がとりあげて、部分的に流行っているから、みたいな感覚で便乗する人間もいるんだろうけど・・・そういう連中ってけっこううっとおしいノイズだよな。
横道それまくったけど、過去作品を鑑賞するときは、周辺状況をしっかり頭に入れておいた方がよほど楽しめるのに、というのが今回の言いたいことでありました。
日記なので「言いたいこと」と言っても自分に、であって、世間様に発信する意図ではないけどね。(じゃあなぜ書く、ということについては以前に書いたのでもう繰り返さない)