火星の月の下で

日記がわり。

○名誉とは何か

「虎は死して皮を残す」という言葉があるが、芸術や学術の世界に身を置くとよく聞こえてくることば「後世に名を残したい」というものとつながっているのだろう。
ただ、唯物論というか、計量的な考えが普通になってくると「死んだ後の名誉に何の意味があるのか」という気持ちになる。
かつてはこの「名」を巡り、唯名論と実名論が喧々諤々の論陣を張ったりもしたほどに文化の領域において重要だったものが、今やかつてほどの力を持たなくなっている。
死して名が残る、というのは、若い頃にはそれなりの力があって、今はひもじくても、あるいは世に受け入れられなくても、歯を食いしばってがんばっていける原動力にもなった。
ポジティヴな効果が期待できるのならばそれはそれでけっこうなことだろう、状況によってはそういう思考ではダメなことがあるかもしれないが、それは各論。
だがある程度齢を重ね、残り時間も見えてくると、はたして「名」にそれほどの力があるのか、と思い始める。
まだ子なり後継者なりがいるところは良い。最後の煌めきまで、その次を信じて生産できるかもしれないから。
しかし、孤高*1の中に身を置いていると、後継者云々というものも、生きている間限定のよりどころにすぎないことに気付く。死んだあとどうするか、なんてのはわからないし、どうにもならないのだから。
一方でまた、エステティツィスムスのような、審美主義的感覚もあって、それは「名を残そう」という動機に見かけ上近いものもあるが自己の内奥に向かってささやきかけるという点について、大きく異なる。
それはむしろ、対価的な感覚とは相容れぬ方向に顔が向いている。
老齢になった今、この方向で考えていくのがいいのだろうか、と思う昨今ではあるが「時間の足りなさ」に絶望することもある。
なかなか難しい問題だが、これからは「名」の為に汗をかくというような老人が減ってくるのではいか、とも考えるところ、と日記らしく思ったことだけを散漫に記録しておく。
まぁ、若い人にとってはどっちでもいいことだろうけどね。

*1:高いか低いかはどうでも良いのだが、孤独とはちょっと違うのでこの表現にしておく。