火星の月の下で

日記がわり。

○1月15日は、昔の成人の日

わしらが学生の頃は15日が成人の日に固定されていたので、未だに1月15日というと成人の日、というのがまず頭に浮かぶ。
少子高齢化について、前々から思っていたことを少しだけ乱雑に書き残しておく。
少子化で苦しむことになるのは庶民も同じで、単に年金問題だけではないいろんな不利益が降りかかってくるわけだが、同時に資本家、持つ者の上にものしかかってくる。
資本家は「人手が欲しい」のではなく「奴隷」がほしいだけというのは昔から言われていたけど、日本の資本家は異民族の流入に対して意識が低いので、日本人の奴隷と同じように働く、と錯覚して(あるいは思い込んで)外人を入れろ、という発想になる。
それが将来自分の子孫の首を絞めることになるとも知らずに。
移民を入れろ、という連中は、自分の子や孫が移民の下で奴隷として働くことになる環境や可能性が理解できない、もしくはありえないと思っている。
そして資本家ではない、所謂持たざる者。
恋愛をしなくなった若者、結婚をしなくなった若者、子作りをしなくなった若者。
個々には原因はいろいあるだろうけど、社会層としては持てる者への反乱ではないのか。
「もうおまえらに自分の命をけずって奴隷を提供したりなぞしない」という、後ろ向きの反乱。
だいたい貧しいからと言って繁殖しなかった民族など過去にほとんど例を見ない。
多くは戦争やら社会的飢餓やらで人口が減っていく。
産業革命期の英国で比較的それに近いことが起こったみたいだけど、今の日本ほどではない。
出会いが少ないとか、結婚するための収入が確保できないとか、理想の異性が見つからないとか、個々にはいろいろ理由もあろうけど、こんな国で子どもを作っても、奴隷にしかならない、ということに、うすうす気づき出したんじゃないか。
確かに物理的には打破できる可能性もあって、どんなに貧しかろうとも、努力次第で良い学校へ進んで良い就職口にありつけて、という可能性はある。
だけどその可能性の著しい低さを皆知ってしまっている。
「世の中に貧しさの中から立ち上がって成功した人」ももちろんいるだろうけど、それが自分の子孫の上に起こると考えるほど人々は脳天気ではなくなったし、また無闇に信じてしまうほどの情報弱者でもなくなってしまった。
こう思い始めたのは、某巨大掲示板で「俺が結婚しないと、結婚するはずだった女が一人結婚しなくなる、それを唯一の慰めとして高齢独身を生きていく」というずいぶん屈折した無名人のカキコミを見たときから。もう10年以上前のことだ。
現実には男の方が多いのだから、そんなのは事実誤認で慰めになぞならないのだが、その心理は少しわかる。
世間一般の幸せと思われていることを行使することによって、それが利用され、削られていってしまう、ということに対する直感的な嫌悪感。
それならば苦労してまでそんなものをつかみに行く必要はない、と自虐的な慰めの中で生きていく・・・。
それは消極的、後ろ向きではあるが、持たざる者の反逆なのではないか。
富の配分の不公平感というものはどの時代、どの社会でもあったことだが、今の日本人は情報を持ちながら、あるいは持つがゆえに、その不公平感の戦場に立つことに諦めてしまった。
自分にできることは、その戦場に立たないことによって、本来の勝者を勝者としないようにすること、という消極的な抵抗をすることになっていく。
加えて、子がいないということは「自分が死ねばそれで終わり」死んだ後のことも考える。
だが独身者はそんなことを考える必要がない。自分が死ねばそこで全て終わり。
こういう感覚こそが社会にとって本当に危険なのだろうけど、未だに結婚難を「出会いがないからだ」なんて思っている政府にはとうていいきつくことがないだろうな。
日記なので脈絡なく適当に書いとくと、私は日本の適正人口は二千万から四千万程度だと思っている。
だから減少すること自体には別にかまわないと思っているのだけどね。