火星の月の下で

日記がわり。

フランケンシュタインと自動人形

メアリ・シェリーの原作版『フランケンシュタイン』が、ボリス・カーロフの「怪物」役等で広く流布してしまった映画版の『フランケンシュタイン』とは全然違うシロモノだ、というのは有名な話で、時に哲学的とまで言える「人類の悩み」を思惟する怪物(人造人間)の姿は、SFの開祖であると同時に、正統派幻想文学の優れた一篇であることを示している。
映画の方の話を抜きにして考えると、これは優れたホムンクルスもので、ホフマンの『自動人形』からチャペックの『R.U.R』へとつながる人造人間テーマである。
物語は全体で五部の構成で(ただし作者自身によって分けられているわけではない)語り手がそれぞれ、北極探検家ウォルトンフランケンシュタイン、怪物、フランケンシュタインウォルトンの順で現れ、それぞれ1人称で語っていく。
量的にも内容的にも、主要な部分をなすのが、ヴィクター・フランケンシュタインによって語られる第2部、第4部で、1人称なるがゆえの独特のレトリックで、自身の才能を語り、欠点を隠して描いている。
ユニバーサル映画版との比較によって、だいたいの筋を追ってみると、
○主人公ヴィクター・フランケンシュタインは、幼年期より愛する家族のもと、恵まれた環境に育った学生で、マッドサイエンティストなどではなく、その知識欲の暴走の結果、遊学先のインゴルシュタットで実験にとりかかる。
○知識の源泉には、錬金術と近代科学とが適度に混ざっており、この書が書かれた19世紀前半の科学事情を反映している。
○のちに「怪物」と呼ばれる人造人間は、死体から材料を集めたと暗示させる描写はあるものの、例えば死刑囚等の具体的な人間が使われた描写があるわけではない。
○実験自体はひどくあっさりとした描写で終わり、人造人間もわりと簡単に作られてしまう。このとき、イメージとして雷の描写はあるものの、雷そのものが人造人間起動のスイッチとなったわけではない。雷のイメージというのは、18世紀末から19世紀前半の幻想文学によく現れた「動物磁気説」の反映である。
○ヴィクターは、誕生した怪物のあまりの醜さと巨大さ、神の所業に触れてしまったことに怖気をふるい、怪物をほったらかしにして逃げてしまう。その後、怪物の姿は、チラチラと目撃はされるものの、雪山で対峙して語りだすまでほとんど現れない。
○最初の犠牲者と思われたのはヴィクターの幼い弟。
○アルプスの雪山で、ヴィクターは怪物と対峙し、今度は怪物が語りだす。・・・第三部。
怪物は、自分が誕生する以前の記憶はなく、最初は自分がなにものであるかも理解できなかったが、とあるフランスからの亡命者家族の隣家の廃屋に身を潜め、その家族を観察することによって、言葉や思想を学んでいく。
○怪物は言葉を覚え、思想を手にすると、こっそりと忍び込んで、ミルトンの『失楽園』、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、プルタークの『対比列伝』(プルターク英雄伝)を読み、さまざまな思考をする。怪物は、かなり高度な知性をもっていたといえる。「・・・そういう感情に導かれて、当然のことながらロムルステセウスよりもヌマやソロンやリュクルゴスなど、平和を好む立法者たちを自分は崇めるになった」なんて言っているのである。
○しかし、勇を鼓してこの亡命者家族の前に出て行くと、その姿の醜さゆえに恐怖され、追い出されてしまう。怪物は絶望に沈み、やがてこの家に火を放つ。
○やがてフランケンシュタインの故郷に現れた怪物は、ヴィクターの弟を殺し、その所持品を近くで眠っていたメイドのポケットにすべりこませ、濡れ衣をきせる。メイドはその結果、裁判で犯人と目され、死刑になる。知能犯だ。
○怪物は絶望の中で、ヴィクターに自分の伴侶を作ることを要求する。そうすればもう人類の前から姿を消す、という約束で。
○第四部、ヴィクターは一度はその約束を受け入れるが、故郷に戻り親しい人や家族と会ううちに決心が鈍る。そのうち、英国に渡り、女の人造人間を造ろうとし、ほとんど作り上げるのだが、またしても恐怖におそわれ、破棄してしまう。
○それを影からじっと監察していた怪物は、ヴィクターの背信を怒り、報復を決意する。
○かくして、怪物は、ヴィクターの無二の親友、幼なじみで兄妹同然のように育ってきたヴィクターの婚約者を次々に殺害する。
○ヴィクターは残りの人生を、怪物を消すことに費やすことに決め、世界中を追いまわすことになる。その途上、氷河の上で、ウォルトンと出会うことになるのだった。・・・第1部、第5部。
この物語の枠の部分をなすウォルトンの部分にも、いくつかのギミックは用意されているのだが、だいたい全体の構造はこんな感じで進んでいく。なによりも、作り出した人造人間が極めて優秀な知性をもっていることとか、それがヴィクターと対等に話をしている、という点などにおいて、これはホムンクルスであるとともに、ヴィクターの影、ドッペルゲンガーの役割りを担っている、ということもわかる。少なくとも、映画に見られるような、暴力装置としてのバケモノではないのである。
この点、映画化によって価値が著しく上がった『ドラキュラ』とはかなり対照的だ。ホフマンの『悪魔の霊液』、シャミッソーの『ペーター・シュレミール』、ポーの『ウィリアムウィルソン』へともつながっていく秀逸なドッペルもの、でもあるのだから。
これを読むと、チャペックの『R.U.R』(ロッサムのユニバーサル・ロボット会社)という劇についても思いがいたる。このチャペックの劇は、「ロボット」という名前が文学史上初めて登場したことでも知られているが、このチャペックのロボットも、有機物を駆使して作られた人造人間である。少なくとも、今日我々が「ロボット」という単語を聞いて連想する、メカニカルなものではない。
人権のない労働機械としての人造人間達が反乱をおこして資本家が没落する、という未来的な図式は存在するものの、その形態はあくまでも魔術的なホムンクルスである。
カニカルな人造人間としては、ホフマンの名作『ザントマン』や『自動人形』等のような、オートマトンものがあるが、これらにしても、魔術小説であるとも言える。
まぁ、ホフマンの場合、視点が芸術家の狂気、といった点にもあるので、単純に素材としての比較は難しいけど、幻想文学の系譜の中で、近い位置にある、というくらいのことは言ってもいいだろう。
シェリーの『フランケンシュタイン』が書かれたのは、1816年、出版が1818年、まさに独・英に後期ロマン派の嵐がふきあれ、そろそろフランスやスペインに影響が出初めていた頃だから、この流れで見るのは間違っていないと思う。
とにかく、幻想文学の学徒で未読の人は翻訳もあるのだから、一読しておくべきだと思う。大陸とは違う、いかにも英国の教養のもとで書かれた、ちょっとした匂いもあるが、独・露・伊等のホムンクルスものとはまた違った趣もあると思う。