火星の月の下で

日記がわり。

シムーンに想う

アニメに関しては、アニメブログを作って独立させてるので、だいたいの感想はそっちで書いてるのだが、批判めいたことはこっちで、という方針なんで、少し不満を垂れ流しておく。
シムーンを第5話まで見たけど、この不親切なつくりに、ちょっとモヤモヤしたものがある。
涼宮ハルヒの憂鬱なども、なかり一見さんお断りというか、原作未読者には、少し敷居が高いんじゃなかろうか、と思えるところも随所にあるのだが*1つくり方自体は、いろいろな仕掛けをあとで照合できるような構成なので、ちょっと見感じるほど一見さんお断り、という風ではない。涼宮ハルヒのシリーズに関しては、ちょっとまだ書きたいこともあるので、熱がさめてなければ稿を改めて書きたいところだけど、とりあえず、シムーンである。
ハルヒのシリーズと違って、個々の人物像について描写する以前に、どかん、とほとんど並列に配置されてしまったため、なにがなにやらよくわからない内に進行してしまい、結局、誰が誰なのか、よくわからないキャラ構成になってしまっている。
物語の方法論として、一から語るのではなく、ある一断面を切り出してきてそこから語りだす、という手法や、あるいは、キャラよりも世界観や情景を重視し、そこから物語が動いていく、そんな手法も、当然ありだと思うし、そのこと自体は別に問題とはならない。
問題は、その手法がまったく消化されずに、ただ漫然と(ひょっとしたら計算なり意図なりはあったのかもしれないが、少なくとも見ている分には漫然と)併置されただけになってしまっている。
ところが、公式サイトを見ると、かなり念入りに背景とか説明されているし、各種雑誌メディア等では人物背景も含めて念入りに紹介されているわけだ。
ここで、ちょっとカチンときた、というか、ひっかかるものを感じてしまったわけで、設定なり背景なりを一生懸命練りこむのはけっこうだし、また必要なことだとは思うけど、肝心の作品の上に反映してなきゃ意味ないでしょ。
やっかいなことに、作画自体は素晴らしい、という部類ではないけど、平均よりはほんのちょっとだけ良い。それゆえ、そこのところで残ってしまうのだけど、表現手法として、はたしてどうか。
作品の中にチラホラ見えかくれするあざとさもあって、どうももやもやした居心地の悪さを感じてしまうわけ。
あざとさについては、今回の表現手法の問題とははずれるので、ちょっと脇においとくけど、視聴者に、努力を要求してくるつくりなので、すこぶる疲れてしまう作品、というのが感想である。
メディアミックスの展開もけっこうだけど、あんまり視聴者側が、事前情報なり、アニメで語られる以外の人物背景なりを調べてからでないとまともに鑑賞できないような手法は、あんまり一般的になってほしくないなぁ、と思ってしまうのである。
キャラ優先で、物語がおろそかになってしまうのも困るけど、人物像を描出することもなく、ほとんど「絵の違い」だけで客を釣ってやろう、っていう姿勢も、困ったことである。
、いや、一番困るのは、ぶつぶつ文句たれながらも見ている、自分、なのかもね。(笑)

*1:残念ながら、涼宮ハルヒシリーズは、スニーカー大賞をとったときにものすごく話題になってたこともあって、消失までは読んでいた。それゆえ、未読の場合、どういう風に映るのか、という側面が体験できなくて、ちょっと残念だったりもしている。