火星の月の下で

日記がわり。

第1回でも優勝候補だった早実

第88回高校野球、もう2度とないだろう、といわれた中京商業(現・中京大中京)の3連覇に並ぶか、と思われた駒澤苫小牧の決勝戦、これまた史上2度目の決勝戦再試合の末、惜しくも早実に敗れる。
ぼんやりと優勝インタヴューとか聞いてると、早実の和泉監督、開口一番「88回待ちました」。
単なるレトリックとして言った可能性が強いんだけど、高校野球の記録とかに興味のある人間にとっては少し興味ある発言でした。というのも、大正4年に開催された第1回大会では、早実は優勝候補3強の一角だったからである。
今はもう無い豊中の運動場で行われた第1回大会、戦前の下馬評は、西の神戸二中(現・兵庫高)、東の早実、ダークホースの京都二中(後に廃校、現・鳥羽高として復活)が3強だった。
この全国大会に先立つ予選、及び各地方大会では、いち早く旧制中学の大会を開催していた近畿の三高主催の中等野球大会で、兵庫の神戸一中(現・神戸高)、関西学院中が強豪校として現れ、やや遅れて神戸二中が台頭してきていた、というのが大正初期の勢力分布。
近畿はこの後、関学中、ついで和歌山中(現・和歌山桐蔭高)の大黄金時代になるわけだが、この時点ではこの3校が強豪だった。その予選を勝ち抜いてきた神戸二中、それに同じ近畿で接戦を繰り広げていた京都二中の二校は当然のように優勝候補と目されていた。
対する関東では、大学野球のライバル校、早稲田と慶応の系列校がそのまま強豪として現れ、早実と慶応普通部(現・慶応高)が東の2強であった。
当時慶応普通部は東京だったので、この両校の間で予選が戦われ、早実が代表権を握る。
かくして第1回大会が開催されたわけだが、当時は中等野球に対する知識がまだそれほど浸透していなかったり(早慶等の大学野球は大人気だったが)、交通機関も現代ほど発達していたわけではなかったので、現在の高校野球ほどの人気ではなかったが、それでも下馬評というのはいくつかたっていたようで、当時の勢力図を反映してか、神戸二中、早実の東西2強に、ダークホース京都二中がどうからむか、というような予想だったらしく、また選手達もそう感じていたと思えるところがあった。
ところが抽選の結果、この早実と神戸二中が初戦でぶつかることになってしまった。
事実上の優勝戦と目され、世間のみならず、両校の選手にもそういう思いがあったようだ。それがこの後、早実100年の苦悩を生む。
試合は2-0の接戦で、早実の勝利。
勝った早実は大喜び。準決勝の相手は、当時まったく無名の東北代表・秋田中(現・秋田高)だった、ということもあり、「明日は秋田だ、楽勝だ」とお祭気分でドンチャン騒ぎとなった。記録には書かれていないけど、当時のことゆえ、酒宴になってしまったのではないだろうか、とも思ってしまう。
そして準決勝戦。相手をはるか下の格下、と完全になめてかかった早実は、走者が塁に出ると無謀な盗塁をしかけてアウトになり、打者は打者で大もの狙いの大振りが目立ち、すっかり遊び気分。ところが、対する秋田中の方は、敵が強豪ということもあり、じっくりと研究し、集中力も高まっていた。

結果、早実、まさかの敗退。
勝戦は、3強最後の一角、京都二中が早実の教訓を生かし、相手を侮ることなくじっく粘って、延長戦の末、秋田を下し、第1回の優勝校となった。
第2回大会では、関東のライバル校であった慶応普通部が優勝し、まさに早実にとってはふんだりけったりの結果だったわけで、当時のライバル校が次々と進学校化していき、全国大会から遠ざかるようになっても、強豪校の位置は維持し続け、春は戦後、王投手を擁して優勝はあるものの、夏の優勝には届かなかった。早実にとって、100年の悲願、というのは、決して誇張ではなかったと思う。
最近は早実も、早稲田の系列高として進学校化してしまっているらしいので、この喜びはひとしおであろう。
別に早稲田の関係者でもなんでもないからどうでもいいんだけどね。(笑)