火星の月の下で

日記がわり。

長靴をはいた牡猫

原書では若い頃に「ロマンティッシェ・イロニー」の代表ということで読んではいたけど、訳本で読んだことはなかったのと、どういうわけか古本屋で買ってきた岩波版が読まずに本棚に残ってたので、入院の機会に他の劇作品なんかとともに持っていったもの。
父が死んだのになけなしの遺産を2人の兄にとられてしまい、牡猫しかもらえなかった百姓の倅・ゴットリープと、彼にもらわれた牡猫の劇・・・というよく知られた童話をベースにしたものだが、この作品が「ロマン的イロニー」の名を冠されているのは、この劇に「観客」と「作者」が登場するからである。
開始直後、芝居を見に来た観客がめいめいに勝手な趣味の話を始め、劇が始まるとその筋を批判しまくるのである。
タイトルになっている「牡猫」の文字を見て、「まさか本当に猫を出すんじゃないだろうな」なんて言ってみたり、ゴットリープにもらわれた牡猫がしゃべりだすと「何故猫がしゃべったりするんだ、良い趣味とは言えない」と糾弾してみたり、異国の王子が出てくると「通訳もなしになんで通じているんだ」と言ったりする。
もちろんこの観客達は、当時の通俗劇の観客をあてこすっているわけだが、単に批判に終っていなくて、例えば観客の不満に作者がひっぱり出されたり、人気役者の道化が場をつないで、筋とは関係なくてもひいきの役者が出てくると喝采が入ったりと、けっこう今の視点でみても面白いというか、ひねりの効きがうまく出ていると思う。
とりわけ、作者が道化や役者と舞台裏で話し始めて「それでもこの芝居は観客がよく書けている」なんて言いだすと、当の観客が「この芝居のどこに観客がいるんだ」などといったりする二重三重の矛盾劇を見せてくれたり、けっこう凝ったつくりになっている。
童話劇のアイロニカルなパロディというと、20世紀のスイス人ヴァルザーが『ドラモレット』の中でいろいろとやっているが、100年以上も前にティークはもっと凝った仕掛けをやってくれているわけだ。
文学史的には、この批判精神と諧謔とが評価されているんだろうけど、レーゼ・ドラマとしての面白さもかなりあると思った次第。
もっとも、これをどう上演するのか、っていう興味もあるが、やはり読む戯曲として楽しむのがいいのだろう。
あー、なんか全然まとまらないけど、退院直後でたいしたネタもないので、このへんで。