火星の月の下で

日記がわり。

○恐い怪獣映画

怪獣映画の論評というか感想で、ゴジラが「恐いから面白い」「恐いゴジラが原点」みたいな話をときどき聞くので、それについて少し。
恐い、というのはかなり主観によるところなんだろうけど、ここでいう「恐い怪獣映画」というのが、かなり曖昧に語られてるような気がする。
私見だけど、怖い怪獣映画、というのは、お話において、撮影において、そして美術において、リアリティがある、ということだと思っていた。
ここでいうリアリティというのは、お話も含めて、ということであって、美術なりデザインなりで、ディテールを細部まで作りこんでいる、という点だけを抽出しているのではない。もちろんそれもかなり大事なことだと思うけど。
要はそのお話が、ひょっとしたらありえるんじゃないか、という理屈と、そういった脅威が訪れたときに感じる切実な恐怖、死への畏怖、そういったものとちゃんと向き合っているか、ということだ。
怪獣映画が昭和の末に「お子様ランチ」になってしまった、と嘆く人はけっこう多い。
では、それに対して、どういう怪獣映画を希求しているのか、ということになって「怖い怪獣」というのがでてくる、ここまではいい。
ところが、ここで「怖い被造物」と向き合うことになったとき、とたんにうそ臭さが出てしまい、せっかく大金をかけて作った撮影なり素材なりがダメになってしまっている、にも関わらず、原点回帰と言い、お話がイマイチだったと言う。
違うんだよなぁ、たとえばそういう凶行が実際に目の前で起こったとき、ファンでしたという俳優がやってるようなかっっこつけた演技、コミカルなずっこけ、そういうのじゃないんだよ。
もっと醜く、もっと情けない、死の恐怖、生への執着、そういったものが、自然に出てくるはずじゃないのか、ということなのだ。
もちろん演出技術の変化、というのもあるし、上手にかつ壮大に法螺を吹ける監督がいなくなってしまった、という側面もあるけど、画面の中に展開されている人物の心の動きの中に、それが事実であったとしたときの重み、つらさ、怖さ、そういったものが読み取れてなくて、リアリティが生まれるのか、恐怖が生み出せるのか、というのがある。
もちろん、怖い怪獣映画を作るためには、もっといろんな要素も必要だし、怖さそのものに突き進んでいくなら、逆に事象に対して客観的に見ている目、みたいなものも必要になってくるだろうけど、怪獣映画になかなか現れてこない「怖さ」というものは、もっと前の段階で止まってしまっているような気がする。