火星の月の下で

日記がわり。

△学歴効用の限界

全然書いてこなかったけど、日曜からけっこうな話題だった、勝間和代ひろゆきの対談で、ついに勝間和代氏側が折れて謝罪したらしい。
勝間さん謝罪 ひろゆき氏と対談で「だめだこれ」
多方面のブログ、ツイッターで、非難されて・・・というか完全に見切られてしまったことに対して、なんとか反応はできた、といったところかな。
ネットで騒然となっても、それにすら気づかず、どんどん自分を見切られてしまう人が多い中、一応最低限の対応くらいはとれた、ということだろうか。
勝間和代という人について、内閣府男女共同参画会議に参加している人ということぐらいしか知らなかったので、Wikiで簡単に経歴とか見てみたんだけど、典型的な偏差値秀才、というタイプの人のようだ、というのが第一印象。
若くして公認会計士試験に合格、というのが最大のポイントなんだろう。
司法試験、国家公務員上級甲種とともに、かつては3大難関試験と言われた公認会計士
いまでは司法試験が改悪されてズタズタになってるし、国家上級の連中はアレだしで、かつての威光も庶民に対してそれほどのアドバンテージを感じさせなくなっているとはいっても、かつてほどではないというだけで、難関試験なのは間違いないだろう。
こういう人はある特定の枠組みの中でなら能力を発揮するのかも知れないが、自分で考えて行動する、発言する、という場では、そういった経歴があまり役に立たない、ということに気づかないまま失敗を重ねるケースもある。
日本の大学入試システムが、基本的に記憶力を問うシステム*1なので、なにかを考えて物事を処理する、方法を生み出していく、ということにとはあまり関係していない。
もちろん、そういった記憶能力で篩いにかけられた人が同様に、そういった処理能力、創造力、なんかに秀でていることは、そうでない人よりも多いだろうけど、違う物差しになっている、ということをしばしば見落としがちになる。
ここで将棋棋士の例とか、プロスポーツの例とか出してみようかと思ったんだけど、今回のこれとはあんまり関係しなさそうなんで、やめておく。だけど、学歴だけでその人の知的能力を測る、という悪しき風習が我々の中にかなりしつこく残っている、ということには注意が必要だろう、と思う。
現実に、一応最高学府と言われている東京大学を卒業したらしい首相が、近来まれに見る知性の欠落者だっことがが判明しているしね。(笑)

*1:以前にもこの件で少し書いたが、記憶競争の中には項目記憶だけでなく、方法記憶も含まれる。日本の入試システムにおいては、数学や理科科目においても、記憶力の多寡、精査を競うものであることにも注意しなくてはいけない。この辺を勘違いして、理系の方が頭が良い、処理能力が高い、と誤解している人も多い。