火星の月の下で

日記がわり。

マルコ福音書の面白さ

子供の頃は、聖書物語というと断然旧約の方が面白くて、創世記だけじゃなく、ヨナ書、ヨブ記、といったかなり変態じみた話も載っており、読んでて「物語的」な意味で楽しかったのだが、おとなになってくると新約もなかなか面白いと思うようになった。
念のため書いておくが、ワタクシは唯物論者なんで宗教的観点からはいっさい見ていないので。
新約というとどうにも抹香くさい「イエスの説教」ばかり、という印象だったが、史的イエス、歴史的人物としてのイエス、初期原始教団なんかに興味がわいてくるとこの最初の5書、第一福音書(マタイ)、第二福音書(マルコ)、第三福音書(ルカ)、第四福音書ヨハネ)、使徒行伝の面白さは格別である。
よく知られていることだが、この4つの福音書にはそれぞれかなり重複があり、とりわけ最初の3書には共通項が多いので、元ネタとなった共観福音書があったらしい、というのが最近の学説。
読み比べてみると巻頭に置かれたマタイ福音書が一番まとまってて、ヨハネ福音書がもっとも宗教書という体裁に近い。
通例我々がイエスの生涯として認識しているのは、この2書で語られている内容によるところが大きい。
今日の研究では一番短いマルコ福音書が最初で、マタイ、ルカがそれに続き、ヨハネ福音書は少し後だろう、と言われている。
最も先に書かれた、といわれる一番短いマルコ福音書だが、これがなかなか面白い。
マタイ福音書によって有名になったエピソードがけっこう削られているのだ。いや、削られているのか、最初からなかったのかは、藪の中ではあるが・・・。
まず冒頭、いきなりバプテスマのヨハネの下にイエスが現れるところから始まる。
つまり、聖母マリアの夫ヨセフ(イエスの父)の系図や、母マリアの処女受胎、東方の3博士、ヘロデ王の迫害、といったおなじみの場面がすっぱりと抜け落ちている。
ことに目を引くのが、イエスの家族と使徒たちの関係である。
・母マリアと家族。
「身内の者たちはこのことを聞いて、イエスを取り押さえにでてきた。気が狂ったと思ったからである」(第3章21)
エスの前につれてこられた母、兄弟に対して、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」と問い、周囲の人々を見渡し、これこそがわたしの母、兄弟たちである、と語る。(第3章31-35)
「この人は大工ではないか、マリアのむすこで、ヤコブ、ヨセフ、ユダ*1、シモンの兄弟ではないか、またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」(第6章3)
・・・と、このように語られている。そこには神に準じる聖母の姿は希薄で、突然奇跡を行い、説教を始め、民衆を従えて行く姿に恐怖と無理解を示す姿が感じられる。
そして、数多くの兄弟姉妹・・・はたして一夫一妻によるものかどうかはっきりとはしないものの、マリアが数多くの子供を産んでいたことも暗示されている。
ともかく「イエスが発狂した」と感じた家族と、はっきりと「イエスがマリアの子」と言っているのは、このマルコの福音書だけである。
使徒との関係。
「いったいこの方はだれだろう。風も海も従わせるとは」(第4章41)
エス使徒に民衆が自分をどう呼んでいるか訪ねたあと「それではあなたがたはわたしを誰だというのか」と問うと、ペテロが「あなたこそキリストです」(第8章29)と答える。
それを受けてイエスは「そのことを誰にも言ってはいけない」(同30)と言って戒めた。
ここには「私の愛する弟子」は存在せず、使徒たちもまた、イエスが何者かわからず、ただ驚嘆しているのみである。
「イエスがキリストである」といったペテロの言葉の背景に、驚嘆とともに、奇跡に対するおびえ、恐れを見てとるのも可能だ。
だがこの驚嘆があったればこそ、第14章で処刑の前にイエスがペテロに言ったという有名なセリフ
「あなたによく言っておく、きょう今夜、ニワトリが2度鳴く前に、そう言うあなたが3度わたしを知らないというだろう」(第14章30)が生きてくるのだと感じる。
文献学、歴史学の立場からも、マルコ→マタイ+ルカ→ヨハネの順はほぼ立証されている感があるが、単純に文を読むだけでもマルコの方が物語として荒々しく、原初の感情に近い感覚がある。
しかもさらに驚くのは末尾である。
福音書に共通し、イエス信仰の根幹の一つとも言われる十字架磔刑とキリストとしての復活なのだが、マルコ福音書では、処刑後、墓からイエスの亡骸がなくなっていることを女たちが見つけた場面と、それに続く復活の場面とで大きく文体が違っているので、復活の場面が後世の追加ではないか、と考えられている点である。
だとすると、マルコ福音書は本来、復活の暗示だけで終わっており、復活そのものには立ち入っていなかった可能性があるわけだ。
マリア懐胎と復活の場を欠く福音書
マリアの子である、と明示される福音書
使徒達もイエスが何者なのか正確にはわかっていなかった福音書
こういった点を前後の福音書、通例われわれがイエス物語として聞き知っている描写と比べてみると、興味をひかれることひとしおである。
ついでながら第6章で語られるバプテスマのヨハネの最後、『サロメ』のモティーフとなった箇所*2が一番長く残されているのも興味深い。

*1:後にイエスを裏切るイスカリオテのユダとは別人。

*2:マルコ福音書の中には「サロメ」という名は出てこない。ヘロデ王の后・ヘロデヤの娘が舞う、という描写である。