火星の月の下で

日記がわり。

古典劇における恋愛成就

プラウトゥスのある劇*1を読んでて印象深いことのひとつに、すぐに子供ができてしまうことがあった。
なんか恋愛成就即出産なのだ。
プラウトゥスに限らず、古典喜劇、古代喜劇、ときに悲劇でさえも恋愛の成就、あるいはそもそもその過程すら描かれず、好きになりました、はい懐妊、というのはけっこう目にする。
もちろん技術的な問題やら演じ手の問題、たとえばかなり長い期間女優が禁止されていて、女の役を少年がしていたため凝った恋愛描写ができなかった、とかいろいろあるけど、恋というものが「子供を作る」ということに直結していた、というのはかなり生々しく感じる。まぁその出産が望まれていたかどうかはひとまずおくとして。
もちろん近代劇になってきて、そういった面はいろいろ進化してきたし、「生産しない恋」というものも多方面に発達してきた。
この辺、理論化というより、自分の目で追っていきたいモノであるな。
小説なら恋愛成就から妊娠まで一直線、なんてのは古代、中世、近代現代を問わず星の数ほどあるし、その逆のまったく立ち入らない、あるいは同性、年齢差、異種間等で物理的に「生産しない」ものも無数にあるが、時間的空間的制約のある劇で、その足跡を追う、というのは、けっこう楽しいかもしれないなぁ、とぼんやり思った残暑の厳しく残る9月のある日のことであった。
そういや、斉藤美奈子の『妊娠小説』に、「妊娠小説の定義は望まれぬ妊娠を扱ったものである」みたいなことが書いてあって、この「望まない側」は、あげてる例から察して圧倒的に男サイドを想定しているような感じだったんだが、昨今のHB系、HM系のような、男が生ませたがってる気満々、女の方は激しく嫌悪する、みたいなのは、対象に入ってくるんだろうか、と違う方に連想がいってしまった。(笑)

*1:手元に今全集がないので、どの作品だったか忘れたが、幕の背後で好きになった女が子を産む場面があった。