火星の月の下で

日記がわり。

◎『オイディプス王』を読む

ここのところ、石川氏の『シラーの幽霊劇』を枕元において、気に入ったページを何度も拾い読みして就寝する、という生活が続いている。
その中で気になっていたのが、運命劇との関連で、ソポクレスの『オイディプス王』が、分析劇としてではなく、運命劇として、そしてそこに「過去の大いなる侵入」というモティーフがあって、ロマン派の運命劇作者達は、そちらの方を実感していたのではないか、といったくだりがあった。
はて、エディプス・コンプレックスの言葉の由来ともなった『オイディプス王』、そういう観点で読むとどうなるのだろう、と思い何十年かぶりに読み返してみたのだが、これがすこぶる面白い。
若い頃読んだのとはまったく違う印象で迫ってきて、さすがはギリシア古典劇の中でも、その完成度の高さで1、2を争うと言われるだけのことはある、と思った次第。
以下、ついったに少し書いたことを採録しておく。

オイディプス王の伝説、モティーフは、ホメロスにさかのぼれるくらいなんだが、この劇の劇的緊張感というのは、再読してみてもそこなわれることがないな。
我々は既に、オイディプスが実の父である先王を父とは知らなかったとは言え殺してしまったこと、そしてまた知らぬ事ではあったにせよ、生みの母(先王の妻)と結婚して、アンティゴネーらの子までなした、というのは知っているけれど、この序盤からの劇的構成には、知っていてなお感嘆する。
先王の死が殺害によるものであることを知り、怒りに燃えて犯人さがしにむかうオイディプス。そして神託の形で王自身が犯人だと告げる占い師。徐々にあきらかになる事実。
たしかにこれは、石川氏の指摘通り、分析劇というより、「過去からの侵入」というニュアンスでも読めるようだ。

オイディプスが、最初自分の罪を知らず、そして徐々にそれが暴かれていく経緯、それこそがまさに、過去の侵入なわけで、およそ2400年以上も前に書かれたとは思えない現代的迫真性をもって迫ってくる。
こういう「過去の侵入」という観点で、のろいの劇、運命劇などを読み返してみるのも面白かろう、と思った、秋の夜長であった。