火星の月の下で

日記がわり。

◇食べたかったもの、食べれなくなったもの

なんか子供の頃感じた「夏」って感覚最近ねーよな?・・・を読んで思ったことを少し。
たぶんこれ書いてる人達は20代から30代くらいだろうと思うので、感覚が少し違う。
まぁそれはともかくとして、世代だけじゃなく、地域でもいろいろと変ってくるだろう。
で、思い出をつらつら書いてもいいんだけど、それよりももっと感じる幼年期との感覚の違い、について、少し記録しておこう。
食べ物についてなのだが、幼年期には幼年期なりのおいしいものがあって、後になって考えると、なんであんなものが食べたくて食べたくて仕方なかったのかよくわからなかったりする。
オムライスにかけられているケチャップ、お茶漬けの梅干し、カレーライスのじゃがいも、干しぶどう、甘納豆、ラムネ菓子、みかん、梨、正月だけに食べられた数の子、等々。
幼年期は食べたいものがいっぱいあった。
正規の食事だけでなく、駄菓子や店屋もの、ジュース、炭酸飲料。
だが、小遣いには限りがあったし、小遣いで後に残らない食べ物を買ってしまうのには抵抗があった。
さりとて、欲しいモノをつまみぐいだけで充されるような金持ちでもなかった。
貧困だった、とまではいえないにしても、平均的な日本人と同じくらいの経済状況と充足感で、欲しいものは常に少しだけその上にあった。
加えてまだ親の保護下にある身である。
買い食いなんかはとんでもない、決められたとき以外に駄菓子なんか食ってたら、ひどく叱られたりもした。
「おとなになったら、自分のお金でおいしいものが食べられるんだ」というのは、頭の隅に残っていた。
決して空腹で、その日の食べ物を心配しなければいけなかった、我々よりもう少し上の、戦争体験世代ほどの「食願望」ではなかったが、「おいしいものを思いっきり食べたい」という願望はどこかにあった。
さて、成人して、自分の金で、自分の計画で、好きなものを食べられるようになった。
では幼年期の夢は満たされたのだろうか。答えは否、である。
なるほど、物理的には可能になった。モラルとしても間違ってないし、止める人なんかいない。
でも、成人してから暴飲暴食、好きなものだけ食べていると、病気になる、それくらいの知識は蓄積される。
たしかに、幼年期に食べられなかったのは食べられるようになったし、ある程度は食べた。
しかしそこに充足感はあるのか、といわれれば、首を傾げてしまう。
おいしいもの「だけ」を食べていれば、死がどんどん近づいてくるのだ。
幼年期の「おいしいもの」への憧れは、結局のところ、幻に終わるのである。
この感覚の違い、これを思い出してしまう。
しかし、それもまた人生というものだよな。