火星の月の下で

日記がわり。

モルグ街とスキュデリー老嬢

一般に『モルグ街の殺人』によって、近代推理小説の幕が切って落とされた、とされるが「推理小説」という形式に対してならば異論のある人は少ないだろう。
確かに「Golden Twenties」を経て、理論やトリックが分類整理され、そのスタイルにおいて進化をとげている今日の目で見れば、ぬるいところも見いだせるかもしれないが、それ以前に、犯罪を理知によって解き明かし謎を解明することを主眼とした小説として、少なくとも『モルグ街の殺人』ほどに意識的、かつ明瞭にやった作品はなかったと言っていいと思うので、この評価は妥当なところだと思う。
犯罪小説という観点からなら、それは既に多くの先達があり、「初めての」とするには問題があろうけど、近現代的な意味での「推理小説」とするなら問題はなかろうと思う。
では、探偵小説としてはどうだろう。
このポーの小説成立以前に、類似のもの、あるいは影響を及ぼしたものを見ようとする試みは昔からあった。
多くはドイツゴシックの色濃い影響下に成立した英国ゴシックや、フランスの大衆読み物なんかがそうだった。
ポー以前の探偵小説となると、どう定義するかでかなり変わってくるけど、一応犯罪の発生と、それを解決する立場にある一人物、という風に定義しておく。
森鴎外がホフマンの『スキュデリー嬢(原題:Das Fräulein von Scuderi)』を『玉を懐いて罪あり』の名で明治22年に訳出したのはよく知られているが、これに対して、日本で初めてホフマンの研究・評伝を著わした吉田六郎氏が、岩波文庫の解説で興味深いことを書いている。

・・・この題ではポイントが宝石強盗におかれて犯罪小説くさいものとなってしまう。
じじつ鴎外は、この小説を、探偵小説類似のものとしか受取っていなかった、と思われる。
明治三十八年四月に書かれた『改訂水泡集序』に、「エドガア・ポオを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず。この篇の如き、やや我嗜好に遠きものなるを、当時強いて日刊新聞に訳載せしは、世の探偵小説を好む人々に、せめてこの種の趣味を知らしめんとおもひしなり」とある。
しかしそれではホフマンが『ミス・スキュデリー』Das Fräulein von Scuderiと題をつけた趣旨が損なわれてしまう。

そしてこの後、スキュデリー老嬢がこの小説の中に占めるはたらき、文芸作品としてのありようを分析、解説してくれている。
なるほど、ホフマン好きにとっては吉田氏の解説はもっともだし、そもそもこの作品を『モルグ街』に先行する推理小説として読むにはそうとうに無理がある。
ただし森鴎外の発言そのものも、明治38年、1905年のことで、まだヴァン・ダインも、クイーン、クロフツ、クリスティも登場するはるか以前のことであることも考慮すべきだろう。
とはいえ『モルグ街』の登場から既に60年以上、半世紀は経っているし、ドイルのホームズものも既に登場している。(『緋色の研究』からも既に20年近く経っている)
従って、現代的な意味での推理小説ではないにせよ、かなりそれに近い意味合いで言っていたのは疑う余地もないのだけれど、それでもやはり『スキュデリー老嬢』を推理小説とするのは苦しいどころの話ではない。
しかしそれをおいても、この作品が『モルグ街』以前の小説作品としてかなり際だった、ほとんど陸上生物に対する上陸寸前の肺魚のような特徴をもっていたことも容易にうかがえる。
ホフマンの意図からは大きくはずれるだろうけど、文芸作品としてではなく犯罪小説として読むと、まず中心人物たるスキュデリー老嬢の存在がある。
彼女はパリを騒がす宝石強盗殺人事件に深く関わっていき、その途上でこの事件の立会人となる。
彼女自身の理知ではこの犯罪は解決しなかった。その意味では探偵としてはふさわしくなく、事件解決へと向かったのは、彼女の信念と人間性によるものであった。
事件そのものも、容疑者として逮捕された被害者の弟子オリヴィエ・ブリュッソンの告白やら、物語終盤になって突然現れる目撃者にしてカルディラック殺害者たるミオサン伯爵の登場で解決する。事件だけを追いかけていけば、スキュデリーによる解決は偶然の範囲を出ない。
にもかかわらず、この小説は探偵小説「的」要素を持っている。(「探偵小説」ではなく、「探偵小説的」)
事件は最初、犯人がまったくわからない、不気味な連続強盗殺人事件として起こり、パリ市中の心ある人々を畏れさせる。
その中で、スキュデリー家にやってくる謎の人物、それが誰かわからぬままに、スキュデリーはまたもや謎の人物と接触し、この犯罪と宝石装飾技師カルデラックに大きくかかわることになっていく。
そして、高潔な人徳の人と思われていたカルデラックまでもが殺され、状況証拠から弟子オリヴィエが逮捕される。
スキュデリーはカルデラックの美しい娘マデロンのたっての願いで、恋仲であるオリヴィエの弁護と無罪を証明しようとして、獄中のオリヴィエと接見すると、オリヴィエこそが以前スキュデリーに接近してきた謎の人物であったことがわかる。
このように、強盗殺人の犯人がわからぬまま、下手人が二転三転していくこと、そして信頼に足る人物かと思われていた人に疑いがかかり、スキュデリー自身にも判断がつかなくなっていくこと、そしてさらに犯罪の真相の中に、被害者と思われていたカルデラックが深く関わっていたこと、なとが暴かれていく。ただその手法が探偵役たるスキュデリーの理知と推理によるものではなく、彼女の高潔な人柄と、関係者の自白、告白だったりする、というものだ。
これは、当時の犯罪小説の中でも、中心人物の周辺で幾多の謎が現れ、解明されていく、という過程で、推理小説、探偵小説、とは言えなくても、探偵小説的である。
18世紀末から19世紀初頭にかけての犯罪小説の多くが、秘密結社小説であったり、超自然の怪奇小説が多かったことを思うと、事件解決そのものは偶然の連続であったとは言え、きわめて現実より、リアリスティックな手法で描かれている。
これは吉田氏自身も書かれていることだけど、浪漫派の数ある作家のなかで、ひとりホフマンの作品だけが、本作に限らず驚くほどリアリスティックな筆致をもっていた。
それはティークやノヴァーリスのメルヒェン小説と比較してみれば一目瞭然だろう。
通常はこの上に、ホフマン独特の芸術家気質や、幻想、狂気、妖魔などが描かれるのだが、本作ではその代わりに、凶悪犯罪があてられている。
ホフマン自身はおそらくこれを犯罪小説、ましてや探偵小説などという認識ではなかったと思うけれど、残されたものにはそういう可能性が内包さている。
『モルグ街の殺人』の登場が本作から約23年後、という時間の差も、この可能性の内包と、熟成、を感じさせてくれたりもするわけだ。
犯罪と犯人がわからない、という状況に関しては、クライストの『こわれがめ』なんかも比較材料として面白いかもしれないのだけど、さすがに疲れたので、この辺で。
ホフマンの『スキュデリー老嬢』に関しては、先の鴎外を初め、翻訳点数も多いので、ちゃんと文芸的立場からまたの機会に考えてみたいと思う。