火星の月の下で

日記がわり。

○豊臣秀頼

ここ数日ダラダラしてるばかりなので、ニュウス・リンクでお茶を濁す
「豊臣秀頼は非実子」…九州大教授が提唱

そこで服部教授は、秀頼の誕生日である文禄2年(1593年)8月3日から逆算、受胎が想定される前年の天正20年11月4日前後に秀吉と茶々が同衾した可能性を検討した。
秀吉は同年10月1日に朝鮮出兵の基地・名護屋佐賀県唐津市)に向け大坂城をたち、翌年8月まで滞在した。
秀吉の子を宿したとすれば、茶々も同行していなければならない。
その根拠とされてきたのは、名護屋に従軍した平塚滝俊の日記にある「茶々が同行しているらしい」という記述だった。
しかし、ほかの多くの史料を再検討した結果、茶々の名護屋滞在を示すものはなかった。
名護屋には側室・京極龍子が滞在したことははっきりしており、服部教授は「平塚の日記は龍子を茶々と誤認したもの」と結論づけた。

同衾したかどうかをチェックしたらしい。(笑)
当時の50歳代の性的能力みたいなものを考えると、かなり無理くさい印象はあったんだけど、やはりか、という感じだが、手法が推測の域を出ていないところもあるので、以前として真相は藪の中、という印象がなくもないな。