火星の月の下で

日記がわり。

◎叙事的ストーリィと劇的ストーリィ

以前ブレヒトについて少し書いたときに、叙事的演劇を劇的演劇に対比した彼の理論の片鱗に少し触れたけど、20世紀後半の演劇だけでなく、文化面でもこれはある種の革新だった。
以前のところにも書いたけど、私自身は作品として、劇作家としてのブレヒトはかなり嫌いな部類ではあるんだが、彼の理論だけは時代の相として秀逸だったと思う。
ただ既にもう世界の前衛はそれを昇華し、別のステージに移ってしまってはいるが。
さて、昨今の大衆的物語作品を広く見ていると、日本ではまだこの領域にすら到達していないことがわかる。
所謂、感情移入、というやつだ。
叙事的演劇論風に言うと「劇的ストーリィ」に対して「叙事的ストーリィ」とでも表現したらいいのだろうか、もちろん叙事詩とか叙事小説とかの意味ではないが、一応そういう風に規定してみる。
そうすると「感情移入」を求められるのが前時代的な「劇的ストーリィ」で、そうではなく、眼前のものに対して感情ではなく知性で対応する、それが叙事的ストーリィと言えようか。
これをもって日本の物語文化(単に小説、マンガだけでなく、映画やノンフィクションも含めて)が未だ20世紀前半の闇の中にある、と思ってはいけない。
私もかつては日本の大衆文芸、大衆物語の停滞性に対してそう感じていたけれど、今では別の視点である。
つまり、最前線の現代文学、物語理論はもっと先に行ってしまっているけれども、劇的であり感情移入して熱狂するのが、大衆文芸の目的なのではないか、したがってそこに「進化」を求めるのは間違っている、と。
昨今、ライトノベルを純文学と比較したり、あるいはまた大衆文芸を語るときにその外側にある規範としての純文学という単語を出したがる向きがあるが、現代文学における「純文学」の最先端は、大衆文芸を語る人々の想定なんかよりはるか先に行ってしまっているので、むしろそういう表現をしたがる輩の方を叱責し、注意した方が良いのかもしれない、と雨の上がった朝を見つめながら、ぼんやりと思うのでありました。
まぁ個人的には作品の価値を「感情移入」なんかで判断しているのはそれ以前のお子ちゃまか、中卒脳だとは思うけどね。