火星の月の下で

日記がわり。

○メッセンジャーとバッキー

阪神 メッセ6回1失点 バッキ―以来2人目の虎助っ人50勝(まとめ記事)
阪神 メッセ6回1失点 バッキ―以来2人目の虎助っ人50勝(元記事)

阪神が初回に4点を先制するなど序盤に大量得点を挙げ快勝。6回1失点と好投した先発のメッセンジャーはハーラー単独トップに立つ11勝目を挙げ、阪神の助っ人ではバッキ―以来2人目となる通算50勝目に到達した。

「バッキー」という懐かしい名前が出てきたので、思い出かたがた少し書いてみる。
上ではバッキー以来の50勝となっているが、バッキーは100勝した。
ルイジアナ出身だが日本によくあった投手で、ハワイの3Aにいたときにスカウトされて日本に来たのだが、このとき新婚。結婚直後にハワイの3Aから解雇された、というけっこうつらい状況だった。
日本に来てもテスト入団扱いだったため、新婦の奥さんには最初の頃コロッケばかり食べさせられていた、というエピソードなんかもあった。(にもかかわらずけっこう子だくさん)
来日した年(1962)に阪神が藤本監督の下で優勝。
この年は途中入団ということもあってそれほど目立った活躍はなかったが、2年後の昭和39年(1964)、29勝して村山とともに大車輪の活躍で優勝。
本来ならバッキーがMVPをとるべきだったのが、この年王貞治が55本の本塁打記録を出したため、そちらにとられてしまう。
これは東京の方に投票権を持つ記者が多かったためとも言われており、冷静かつ常識的に判断するなら優勝チームの29勝投手で、最多勝最優秀防御率を取ったバッキーが受賞するのが当然だったはずだ。
この頃阪神にはもう一人外国人投手がいて、左のサイドスローというかなり印象的な投げ方をするバーンサイド
こちらは来日したときに既に高齢であったためバッキーほどの活躍はできなかったが、小山がトレードで去ったあと、村山、バッキー、若生、権藤(新人35勝の中日・権藤博のほうではなく、権藤正利)らとともによくローテーションの一角を守っていたように思う。
そしてリーグは違うが南海にもスタンカがいた。
バッキーという名前は古い野球ファンには戦前のバッキー・ハリスを、団塊の世代かそのちょっと上くらいだと「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」あたりを連想するだろうけど、私の世代だとなんといってもこのバッキー投手で、外国人投手としては未だにスタンカとともにトップ2だと思っている。
ついでに言うと、阪神の外国人打者だとたいていの人はバースを第一に上げるだろうけど、私の世代だとカークランド。
もちろんバースの方が上なのはわかってるつもりだけど、世代的にね。
そしてラインバックとブリーデンが印象度としてはカークランドのあとに続く名前。
メッセンジャー投手がいつまで阪神にいるかわからないけど、スタンカ、バッキーのような足跡を残していってほしいものですな。