火星の月の下で

日記がわり。

室山まゆみさんのデビュー前の作品『吸血鬼』が公開される

竹熊さんのtweetで知ったのだが、『あさりちゃん』で広く知られる漫画家・室山まゆみさんのデビュー前原稿が熊本のご実家から発見されて、公開されているようだ。
竹熊健太郎さんのtweet(ps://twitter.com/kentaro666/status/1156773257573388288)
「執筆50年目の初公開! 「室山まゆみ」の第一作「吸血鬼」を特別公開!」(ps://sho.jp/topics/news/41948)
室山まゆみ先生・初の合作まんが「吸血鬼」 50年を経て世界初公開!」(ps://sho.jp/asari/41827)期間限定公開。
表紙だけ見ると、おおデヴュー前はオカルト嗜好だったのか、という感じなのだが、中身はしっかりとギャグ漫画。
よく知られているように、「室山まゆみ」というのは姉妹のペンネームで、この原稿制作時、姉が中三、妹が中一だったそうだ。
それを知ったうえで見ると、ああ、漫画家になってヒットをとばすような方は、もうローティーンの頃から輝く感性みたいなのがあったのだな、というのがよくわかる。

ゲオルク・ハイム『Der Irre』(狂人)

ゲオルク・ハイム『Der Irre』(邦題名:狂人)・・・出所したあと、次々と人を襲い血の海に沈めながらも、次の瞬間その事実を他人事のように感じてしまったり、衝動がそのまま走り出していくところなど、まさに「気のふれた」様子が頻出する作品なのだが、罪なき男女を屠りまくっていながらも、妙に乾いた感覚がちりばめられているのは「彼」の内面を描きつつ、その実決して主観語りになっていない距離感にあるのかもしれない。
加えて、畳みかけるような単文の描写。
術語句や冠飾句が連なる19世紀ドイツ語散文の特質から離れたこの手法はビュヒナーなどにも見受けられるが、効果的に使用したという点でカフカのスタイルを想起してしまう。
中盤で、初対面の若い女を衝動的に追い回し、のどを食い破って殺してしまう場面があるが、そのとき血にまみれながらその血を飲む場面などは、現代の吸血鬼相にも踏み込んでいてなかなかに興味深い。
もちろんその本質はそういった個別の暗黒面よりも、その背後に浮かんでは消えていく、都市の病巣とその感染力があるのだが、情景の特異さにすべてのみこまれていくようだ。
なお、邦訳は「ドイツ短編24」にも載せられている。

ハイムというと、なんといっても初期表現主義の詩人で、その「恋人たちの死」や「すべての風景が青で満たされている」等に色濃く表れるが、散文においてもなかなか強烈な色彩を展開してくれる。
スケート中の事故により、25歳で死去。

デュ・プレの小品集

ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロ小品集」を夜中に引っ張り出してきて鑑賞。
当初はBGMのつもりでかけていたのだが、どんどん引き込まれてしまった。
冒頭、ブルッフの『コル・ニドライ』で始まり、最後をフォーレの『エレジー』とサンサーンスの『白鳥』でしめる。
こんなの聞きこんでまうやん
特に『コル・ニドライ』と『エレジー』は良いね。何度もこの二曲だけ聞き返してしまった。

「数ある楽器の中でチェロが一番人間の声に近い」・・・といったのは誰だったか。
この小品集には、人が生の声で感情を歌ってくれる、そんな趣がある。

ドイツ解釈学

(1)Übersetzung
かつて、深田先生のドイツ語講読会に出たことがあり、そこで「異言語をどのように読むか」という訓練をしていただいたことがあった。
その講読会は、分類上[上級講座]だったこともあり、深田先生が選ばれたテキスト(一応未邦訳のものばかりだったが)は出席者一同みな普通に読めるため、一層深い「解釈学」の領域に立ち入ってくれた。
たいへん有意義な講読会だったと今でも思うし、当時受けたこの「知の訓練」は今でも血肉になっていると感じることがよくある。
まず、異言語の文章、特に報道とか情報ではなく、芸術作品として記されたものに対しては、それなりの意識をもって読まなければいけない。
通常「Übersetzung」と呼ばれるものは「翻訳」という訳語が与えられるが、語義を切り崩してみると「置き換え」である。
もちろん、Übersetzungにおいても単なる逐語訳ではなく、文章全体を把握し、辞書に記載されたままの訳語で事足りるとするものではない。
そこにはまず技術的な意味での正確さが要求されるし、字義の広さに対して的確な判断も必要とされる。
だがひとたびその意識が、書かれた文章の内奥に入っていくに及び、さらに深い理解が求められる。それが解釈学である。

(2)Interpretation
英語だと多少意味が変わるが、ドイツ語だと「Interpretation」には通例「解釈」の訳語が与えられることが多い。
書かれてある内容がある程度理解され、字義の広さや深さが認識されると、次はその言葉の背景、記述者がいかなる意識を持ち、いかなる社会の中で書いていたのかについて理解されなくてはいけない。
そのことは訳語の上で、見た目としての大きな変化を伴うものではない。
したがって、商業翻訳においてはここまで踏み込む必要がないことも多いし、即時性が求められるときには必ずしも必須の理解とされるものでもない。
だが、書かれた文章をさらに深く理解したい、あるいはその意味することの深み、あるいは意図などに分け入りたいと思うとき「Übersetzung」ではない「Interpretation」の意識と技術が必要となってくる。
それは例えば修飾・形容表現における同時代の用法であったり、記述者が変化していく文法に対してどういう感覚を持っていたかであったり(格文法における支配格の変遷等)、あるいは使用される外来語に対しての意識等、無数に存在するであろう「なぜこの単語(句、文)を選んだか」というところに切り込んでいくものだ。
そしてそれがなされるとき、技術と思索の差も浮かび上がってくることになろう。
同時代の言語環境は、たいていの場合技術的側面であり、まだ「Übersetzung」に近い。
与えられたテキストの中で、その語句、あるいは文章をそういった技術的、思索的処方で紐解いていく喜び。
「文を読む」というのはこういうことだ、と理解させれられた。

(3)Hermenuetik
だが、講座も終盤にさしかかったころ、先生は新たな深みを我々に示してくれた。
Interpretationの行く先に底流のように深く、濃密に漂うもの、それを見つけ出し読み解き、解釈していくフィロローギッシュな手法、意識。
「Hermenuetik」は他言語においては「ヘルメス文書学」「聖書解釈学」等と訳されることもあるが、ドイツ解釈学においてはこれもまた「解釈学」である。
しかしその扱う網はさらに深く、さらに昏い相貌を見せ始める。
そこには人間がその脳髄から生み出してきたもののみならず、全体としての哲学や宗教といったものさえ視野に収める「海を見る」認識が必要だった。
語学文学を一生の支えとして生きていく者にとって、「Interpretation」の深みに入っていくことは重要にしてかつ、ある帰結の姿でもある。
その中に到達したことにより、人は長い永い思索の豊かな結実を見るのだ。
優れた文章家というものは、たいていこの結実を内面にとりこんでいるものだ。
だが「Hermenuetiks」は違う。これは万人が到達できるところではないし、また必要もない。
ある特殊な思念のみがこの境地にやってくるのだ。
それはもちろん、どちらが偉いか、どちらが深く理解しているか、などという浅薄な優劣の問題ではない。

だが歳経るに従って、ことばの中に秘められた魔術的な思念を覗き見たいと思う昨今、頭の中にこびりついている問題でもある。

WFの日

酷暑の一日。
台風の影響で雨だったところもあるそうだが、当地では酷暑と多湿。
WFの日でもあったけど、当然のように家で待機。
とはいえ、ネットのおかげでどんなのが出品されてたのかが手に取るようにわかるのが良いね。
コミケと違って、単品が高額になることが多いフィギアの世界。
現地にいてもたぶん購入はできそうにないので、視覚的にみることができればそれで100%とまではいかなくても、7~8割の充足感はある。
個人的には、カップ酒を持ってる丹下段平のフィギア(単価4000円で完売したらしい)が面白そうであった。

佐賀ゾンビ第2期決定

今日、佐賀県でやったライブで発表されたらしいが、こういう速報性はついったが今一番かもしれん。
情報収集ツールとしてのついったはまだまだ使えるから、当分は受信専用で利用する予定。
発信凍結宣言してしまったけど、ひょっとしたらなにかのはずみでやっちゃうかも…とは言え、あの使いづらさはまだ慣れてないのう。

で、その佐賀ゾンビ…時期はまだ不明だけど、劇場ではなくテレビらしい。

「おまえが言うな」の最適見本

竹中平蔵"誰が失われた30年を作ったか"」
(ps://president.jp/articles/-/29173)
竹中氏が直で論じているわけではなく、竹中氏が書いた書籍からの引用で大陸系の論者が平成時代を回顧しているものなのだが…。
このタイトルだと、中身を読まずにほとんどの国民が一斉に「おまえが言うな」と言いたくなるんじゃないかな。
もちろん平成大不況は竹中+小泉両氏のみが原因でなったわけではないけど、結果からみると大きな要因だったしね。