火星の月の下で

日記がわり。

ドイツ解釈学

(1)Übersetzung
かつて、深田先生のドイツ語講読会に出たことがあり、そこで「異言語をどのように読むか」という訓練をしていただいたことがあった。
その講読会は、分類上[上級講座]だったこともあり、深田先生が選ばれたテキスト(一応未邦訳のものばかりだったが)は出席者一同みな普通に読めるため、一層深い「解釈学」の領域に立ち入ってくれた。
たいへん有意義な講読会だったと今でも思うし、当時受けたこの「知の訓練」は今でも血肉になっていると感じることがよくある。
まず、異言語の文章、特に報道とか情報ではなく、芸術作品として記されたものに対しては、それなりの意識をもって読まなければいけない。
通常「Übersetzung」と呼ばれるものは「翻訳」という訳語が与えられるが、語義を切り崩してみると「置き換え」である。
もちろん、Übersetzungにおいても単なる逐語訳ではなく、文章全体を把握し、辞書に記載されたままの訳語で事足りるとするものではない。
そこにはまず技術的な意味での正確さが要求されるし、字義の広さに対して的確な判断も必要とされる。
だがひとたびその意識が、書かれた文章の内奥に入っていくに及び、さらに深い理解が求められる。それが解釈学である。

(2)Interpretation
英語だと多少意味が変わるが、ドイツ語だと「Interpretation」には通例「解釈」の訳語が与えられることが多い。
書かれてある内容がある程度理解され、字義の広さや深さが認識されると、次はその言葉の背景、記述者がいかなる意識を持ち、いかなる社会の中で書いていたのかについて理解されなくてはいけない。
そのことは訳語の上で、見た目としての大きな変化を伴うものではない。
したがって、商業翻訳においてはここまで踏み込む必要がないことも多いし、即時性が求められるときには必ずしも必須の理解とされるものでもない。
だが、書かれた文章をさらに深く理解したい、あるいはその意味することの深み、あるいは意図などに分け入りたいと思うとき「Übersetzung」ではない「Interpretation」の意識と技術が必要となってくる。
それは例えば修飾・形容表現における同時代の用法であったり、記述者が変化していく文法に対してどういう感覚を持っていたかであったり(格文法における支配格の変遷等)、あるいは使用される外来語に対しての意識等、無数に存在するであろう「なぜこの単語(句、文)を選んだか」というところに切り込んでいくものだ。
そしてそれがなされるとき、技術と思索の差も浮かび上がってくることになろう。
同時代の言語環境は、たいていの場合技術的側面であり、まだ「Übersetzung」に近い。
与えられたテキストの中で、その語句、あるいは文章をそういった技術的、思索的処方で紐解いていく喜び。
「文を読む」というのはこういうことだ、と理解させれられた。

(3)Hermenuetik
だが、講座も終盤にさしかかったころ、先生は新たな深みを我々に示してくれた。
Interpretationの行く先に底流のように深く、濃密に漂うもの、それを見つけ出し読み解き、解釈していくフィロローギッシュな手法、意識。
「Hermenuetik」は他言語においては「ヘルメス文書学」「聖書解釈学」等と訳されることもあるが、ドイツ解釈学においてはこれもまた「解釈学」である。
しかしその扱う網はさらに深く、さらに昏い相貌を見せ始める。
そこには人間がその脳髄から生み出してきたもののみならず、全体としての哲学や宗教といったものさえ視野に収める「海を見る」認識が必要だった。
語学文学を一生の支えとして生きていく者にとって、「Interpretation」の深みに入っていくことは重要にしてかつ、ある帰結の姿でもある。
その中に到達したことにより、人は長い永い思索の豊かな結実を見るのだ。
優れた文章家というものは、たいていこの結実を内面にとりこんでいるものだ。
だが「Hermenuetiks」は違う。これは万人が到達できるところではないし、また必要もない。
ある特殊な思念のみがこの境地にやってくるのだ。
それはもちろん、どちらが偉いか、どちらが深く理解しているか、などという浅薄な優劣の問題ではない。

だが歳経るに従って、ことばの中に秘められた魔術的な思念を覗き見たいと思う昨今、頭の中にこびりついている問題でもある。