火星の月の下で

日記がわり。

幻想演劇・序

まだ考えがまとまってないのだけど、まとまるまで待っていたら永久に書き残せない気がしたので、頭の中ではまだイメージが雑多に散らばったままだけど、とりあえず今後の私の指針となることを期待して、ここに書き散らしておく。
近代演劇において、幻想演劇はどこまで可能なのか、ということ。
こんなことを感じたのは、脚本を読んでいるときにはかなりイマジネーションが刺激されるのに、いざ舞台にかけられたものを見ると、やたら学術的というか、政治的、思想的脚色がなされてしまい、幻視的、あるいは夢幻的効果が、ある種の比喩、もしくは寓話にされてしまっていることが多く、その夢幻的創造力がかなり損なわれてしまっている、と感じることが多いのである。
ヴェデキントの『春のめざめ』で、首を抱えてあらわれるシーンがクライマックスに用意されているが、今日ではこの作品の中枢は、14歳の少年少女の性、あるいはおとなたちの社会の閉鎖性を通して、無知や閉塞などがテーマに上げられてしまい、かなり違うものとして舞台にかけられてしまうことが多いようだ。
そういった、研究家を喜ばしそうな面もあるだろうし、時代背景を考えれば原著者の意識にはあったと思うが、それを優先するあまり、この瑞々しい幽鬼の描写を比喩化してしまってもいいのだろうか。
ハウプトマンの童話劇『ハンネレの昇天』では、貧しさの中で息を引き取る少女が、天に召されながら、様々な童話的で美しいものを幻視する。
しかし、現実は、貧しく汚らしいものが転がる室内があるだけで、ハンネレの幻視との対比が鮮やかに甦る美しい掌編だが、これを社会主義的演劇史観の立場からゆがめてしまってもいいものなのだろうか。
ダンセイニ卿の『光の門』や『山の神々』を、時代の不安の名の下に改変してしまってもいいのだろうか。チャペックの『R.U.R』は?ネストロイの『ルンパチガヴァブントス』は?
こうした、「学術的」な「社会主義的」な意味の改変、あるいは寓話化、比喩化によって、幻想演劇としての生命が枯らされてしまう、そんな危惧を常に感じてしまうのだ。
幻想演劇は、その幻視性ゆえに、普遍を勝ち得ている、と思うので、そういった社会的な改変はあまりしてほしくないのだ。
大衆迎合とか、娯楽に堕したとか、そういう批判が、作品の本来持っている普遍的な幻視を理解できない、不感症の頭から発せられることがよくある。それも一因なのかもしれない。
ともかく、これからいくつが具体的に幻想演劇を回顧していくときに、そういった改変は極力視野に入れずに考えていきたい。
・・・やはり全然まとまりがなかったようだ。まぁ、メモということで、バラバラな文章だけど、とりあえず残しておく。