火星の月の下で

日記がわり。

将棋を伝えられないワイドショー

「出演者ら将棋が指せず…藤井七段の強さを伝えられない番組」
(ps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/276448)
ここに書いてあること、いちいち思い当たる。
このコラムはメディア側に対して、かなり好意的に書いてるけど、われわれファンとしてはどうしても「こんなとこまで飯の種を探しにくんなよ」と否定的になってしまう。
W杯でラグビーが話題になった時、ラグビー関係者の間から「にわか歓迎」の空気が生まれて、そこに皆がうまく乗った感じがして、ああいうのであれば「知ったか」でも好意的にとらえることができるんだけど(それでもサッカーをたとえに出されるとかなり不快ではあったが)将棋は努力したからと言って万人にわかるようにはできていないからな。
そこで最年少とか、将棋メシとかの話題になって、そちらの方が将棋の中身よりも大きくなってしまう。
知らねーなら口をつっこむな。
ラグビースピリッツからするとこういう考えはよくないんだけど、どうしてもそういうのが出てしまう。

報道の場合は、そもそもワイドショーなんかほとんど見てないので、無視できる誤差の範囲になるんだけど、これが小説、漫画なんかの題材になってくると、息苦しいことこの上ない。
昔は、というのはまだ高度経済成長の頃だけど、将棋小説なんてのは、もう好きで好きでたまらない、という作家が憑かれたように書いていたものだったけど、最近の将棋マンガはどうひいき目に見てもまともに知らなさそうなのに、棋士とかにスポットを当てて描いてるのがちょこちょこ見受けられる。
もちろん、将棋愛にあふれた力作や、経験者なんかがものにしたものもあるけど、そういうのが漫画として面白いかどうかはまた別の話なので、漫画として成立するかしないかってのは、将棋に対する蘊蓄の深さで決まるわけではないのが、ことをややこしくしている。
送り手の側からすると面白くできれば成功であって、将棋の理解が必ずしも必要条件にはならない。
受け手の場合も大半がそうで、将棋の細かな手順解説とか、奇手が奇手たる所以とかを延々と書かれても困ってしまう。
世間一般の場合はそれでもいいのだけど、我々少数派になってしまうであろう「首をつっこんでいた者」どもにとってはフラストレーションがたまることこの上ない。

そこで冒頭の想いにつながってくるわけだ。
おまえらに飯の種を提供するためにファンやってんじゃねーんだよ、と。