火星の月の下で

日記がわり。

ノーベル文学賞に見るアンガージュマン

ここ数年、国内では「ひょっとすると村上春樹ノーベル文学賞をとるんじゃないか?」という期待というかムードみたいなのが高まっていたが、今年の文学賞は、英国のレッシング女史という、一般日本人にはあまりなじみのない名前の方が受賞された。
とはいっても、昨年のトルコのパムク氏よりは知られてて、一部では「遅かったくらいだ」なんて声も出ていた。
経歴とか見ると、SF傾向の強い作品も書いている、みたいに紹介されてるんだけど、普通には『黄金のノート』のフェミ作家、っていう印象だよね。受賞理由もそのあたりだと思うし。
ノーベル賞が、ロビィ活動や政治的理由で決定されることがしばしばある、というのは周知の事実で、文学賞においてもそういうのは反映されてるけど、実はこの30年ほど、中身においてもかなりアンガージュマン傾向の強い作品が選ばれることが多くなっている。
日本人として2人目の受賞者、大江もその傾向が強かったし。
日本人の本読み、愛書家、っていうのは、このアンガージュマン文学を嫌う、とまではいかないけど、純文学に比べて格が少し落ちるように感じている者が多いのではないだろうか。
数字的な根拠はないけれど、よく読まれている作品にそういうのが少ない、というのは体感でわかるし、ラノベとか娯楽SFとかではない、いわゆる文学作品として認識されているものでも、一読して作者の政治思想が具体的に判別するケースというのは、少ないだろう、と思うのだ。抽象的に「やや左」「ちょっと保守」くらいのはわかるだろうけど。
ところが欧米、特に西欧の文学基準は必ずしもそうではなくて、作者がいかなる政治思想を持ち、(国にもよるけど)どの政党のどの政策を支配しているか、っていうのは、けっこう関心事があるのだ。
そういう意味で村上文学を読むと、かなり押しが弱い印象がある。文学的評価、というのではなく、アンガージュマンとして、だけど。
川端が受賞したときには、まだ純文学的規範、というのはノーベル財団の方にもあったように思うけど*1(現在もなくなっているわけではないが)、ノーベル文学賞が規範としてかかげている「理想主義的、人道主義的な文学」というのは、近年ではかなり幅を広げてしまっているようだ。
もちろん、理想主義的、人道主義的な文学、という受賞もあるけど、やはりアンガージュマン、そこまで行かなくても政治的メッセージを含むものが多くなってきていると思う。
フェミ文学についても、日本ではこのジャンルはかなり弱いが、欧米では貴重な分野で、ノーベル文学賞でも早い段階で、ノルウェーのシグリ・ウンセットが受賞したりしている。
ウンセットのものは歴史小説としても読める。
ヴァイキング時代の北欧を舞台にし、一人の少女が恋をし、出産し、母親になって、という大河小説『クリスティン・ラヴランスダッテル』など、中世北欧のヴァイキング美少女ロマン、みたいな認識で読むとえらい目にあう作品で、全体の2/3くらいは、女性が女性であることの苦悩、女性自立を歌っている。
同じ北欧の女性受賞者でも、スウェーデンのラーゲルレーヴェあたりとはかなり趣が違うのだ。
今回のレッシングも、かなり濃厚にこの血をひいていると思う。2004年のイェリネクもそんな感じだったかなぁ。
したがって、村上春樹が受賞するのは、日本人が思っているほどには簡単じゃないかもなぁ、という気がかなりしているところだ。
ただ、政治的傾向の強い文学者がけっこう続いているので、そろそろゆり返しがあって、という期待もある。
物語文学としての面白さ、これは戦後の日本人が私小説の呪縛から解き放たれて、到達したひとつの境地だと思うので、ぜひ受賞してほしいかな、とは思っている。村上文学自体はあまり好きじゃないけどね。(笑)

*1:川端の受賞に政治的理由がない、とか、川端文学に政治性がない、という意味ではないので、念のため付記しておく。