火星の月の下で

日記がわり。

○熱闘三度の名勝負

高校野球のシーズンが近づいてきて、そろそろ予選の話題が各地で聞かれることになる。
甲子園大会というのがもう高校野球全国大会の代名詞になって久しいが、過去を振り返って思い出の名選手、名勝負、というのもこの時期チラチラいろんなところで特集を組まれ出す。
ワタクシもそいつに便乗してひとつ。
単一の試合を取り上げて、名勝負、というのはよくあるし、それぞれの世代、あるいは記録上の名勝負等、語る人によっていろんな切り口が出てくる。
よく話題に上がる、中京商−明石中(1933)の延長25回、松山商−三沢高(1969)の決勝戦延長18回引き分け再試合、箕島高−星陵高(1979)のまさに死闘、松山商−熊本工(1996)の奇跡のバックホーム、そして横浜高−PL学園(1998)など、それぞれの思い出の中に名勝負はあるだろう。
だが、当時の二強が他を圧倒してその強さを誇り、かつ一度ならず二度、三度と激戦を繰り広げ、しかも勝ったほうが確実に優勝していた、という点で、1960年から61年にかけての法政二高(神奈川)と浪速商業(大阪)を史上最も激しかったライバル決戦であった、という点に関してはそれほど異論は多くないだろう。
1960年、夏。
一回戦で前年優勝の愛媛・西条高校を下した浪商は剛速球の一年生エース・尾崎行雄を擁し、二回戦でこれまたこの大会屈指の名投手、二年生エースの柴田勲を擁する法政二高と激突。
洗練された都会的な野球の法政二高に対して、後に阪急で活躍する二年生住友、一年生尾崎ら超高校級の逸材をそろえる浪商。
結果は4-0で法政二高の勝ち。
法政二高はその勢いもあってか決勝で静岡高(静岡)を下して初優勝。
このとき、柴田は「尾崎君が剛速球と言っても、我々は神奈川予選で慶応の渡辺泰輔と対戦している」といったような主旨のことを発言したとされ、浪商ナインの闘争心を大いにあおることとなる。
ちなみに渡辺泰輔とは、この年の春の選抜に出場した慶応高校のエースでベスト8まで進んだ好投手。のちに慶應義塾大学を経て南海ホークスへ入団する一流投手であった。
1961年春。
下馬評は圧倒的に、浪商、法政二高の二強状態。
ともに二回戦を勝ち上がり、準々決勝で激突した両雄は3-1で再び法政二高の勝ち。
打倒法政二高の執念を燃やす浪商に一日の分があると思われたが、またしても凱歌は法政二高に上がる。このあと法政二高は無人の野を行くがごとき勢いで、決勝で前年のセンバツの覇者・高松商(香川)を下して初優勝、そして夏春連覇
1961年夏。
法政二高・柴田三年生、浪商住友三年生、尾崎二年生、高田一年生。最後の戦い。
あまりにも両校の戦力が突出しているように見られた大会で、両者はみたび対決。
ここまで法政二高が緒戦・宇都宮学園(栃木)を9-1で下したのを皮切りに、二回戦・大社(島根)を4-0、準々決勝・報徳学園(兵庫)を9-1と圧倒してベスト4へ。
対する浪商は緒戦・浜松商(静岡)を1-0,二回戦・銚子商(千葉)を2-1,といささか苦戦したものの、準々決勝では中京商(愛知)を14-0で下して、ベスト4へ。
両雄、準決勝でみたぴの対決。
8回を終わって2-1で法政二高リードのまま9回表へ。
浪商は二死まで追い込まれるが、打者・尾崎が起死回生の同点打を放ち、延長へ。
延長11回表、浪商が2点を奪い、4-2でついに打倒法政二高を達成。
浪商は決勝で桐蔭(和歌山、戦前の和歌山中)を下して優勝。あの平古場を擁して戦後初優勝を飾った昭和21年以来、15年ぶり二度目の優勝である。
その後の2人はプロ野球へと進み、活躍。
柴田は読売巨人に入団し、投手としては失格の烙印を押されたものの、その打撃センスを買われて野手に転向、9連覇前半の一番打者、あるいは盗塁王としても名をはせる。
尾崎はこの年、2年で浪商を中退して、東映フライヤーズに入団。
翌年、18歳で20勝投手となり新人王、同時に東映の初優勝に貢献。
高校3年生の学齢での20勝、新人王は、現行学制以後では最年少。
その後、剛速球を駆使して1965年には27勝を挙げて最多勝となるも、肩の酷使により、意外と短命に終わる。
だが、今年亡くなられたとき、一年先輩である住友平氏が紙面で「米田(350勝投手)とも話していたけど、たぶん史上最速の剛速球投手だった」というコメントを寄せていた。