火星の月の下で

日記がわり。

○変わった名前だったので覚えている

太田幸司とバッテリー、伝説の準優勝
昭和44年、大阪万博の前の年、全国をわかせた松山商vs三沢高の決勝戦、18回延長引き分け、再試合。
「全国をわかせた」というのは誇張でもなんでもなく、当時は今ほどサッカー人気はなく、プロボクシングやプロレスも往年の人気に陰りが出てきた頃だったので、野球人気が突出していた時代。
そんな中で、後に近鉄に入団した太田幸司の人気はずば抜けて高く、その甘いマスクも相俟ってまさに国民的人気だった。
この決勝戦引き分け再試合はもう全国津々浦々まで、といっていいくらい熱狂したゲームで、名勝負というのは選ぶ人によって他にもあるだろうけど、甲子園の高校野球が国民に与えた影響としてはたぶんピカイチだったと思う。
そんな三沢高校の正捕手・小比類巻さんと、そのご子息も甲子園に出場して活躍されていた、という記事。
三沢の小比類巻さん、というのは変わった苗字なんで当時の試合を覚えている人ならば、三沢高・太田、松山商・井上、の次にたぶん思い出される名前ではなかろうか。
後年、小比類巻かほる、というアイドルが出てきたときも、あの三沢高の小比類巻と同じ苗字、という記憶があった。
名字検索ネットで軽く調べてみると、青森県三沢市にルーツを持つ苗字らしい。
当時の三沢高校はもちろん太田投手の三沢高校という感じではあったが、決して太田のワンマンチームではなく、そこそこよく打ち、よく鍛えられた「北の強豪高」だった。
あの決勝戦に出てくるまで太田が打ち込まれた試合もあったけど、それを跳ね返す打力もあって、東北の公立高校とは思えない力強さを感じた。
記事では、小比類巻捕手は最初捕手ではなく、急造だったという。
そしてそのご子息も、青森の強豪光星の選手として甲子園に出場。
あのダルビッシュが活躍した年で、このときもその変わった苗字で少しだけ記憶に残っていた。
ああ、あの三沢の小比類巻捕手のご子息が出場されているのか、と。
そのご子息の記事で心に残ったのが、ここ。

父が甲子園で、すごい試合をやって準優勝という話は、周囲から聞いたんです。
家で準優勝のメダルなどを目にしていたが、父はその話はあまりしなかった。
自分は甲子園で決勝まで行けなかった。最近あらためて父は偉いなと思います。

昔の球人って、そういう栄光や経歴をあまり語りたがらない、という人が多かった。
決していやな思い出とかではなく、サムライの心、みたいなものがあったのだろう、などといろいろ妄想してしまう。