火星の月の下で

日記がわり。

マイナーの誇り、マニアの誇り

隣人さんが昨日の日記でいいこと書いてたので、私も便乗して少しだけそのテーマで書かせてもらおう。
http://d.hatena.ne.jp/Nachbar/20071019
初音ミクの騒動についてはまだ情報が出揃ってないので、コメントできないけど、
>「なぜお前らはオタクとして世間に認めたがられるのですか」
これはなかなか良いことばですな。これについて少し。
うちのアニメブログの方にも以前、「立派なオタクになりたい」とかって人が来てたんだけど、わしの世代だと、この文脈が既に破綻しているような感覚がありありとあるんだなぁ。
つまり「オタク」なんてのは差別用語であり蔑称である、っていう時代をまんま直撃されながら生きてきたので、「立派なオタク」ってそりゃ犯罪者のことかい、ベイビー?・・・てな気分ににっちゃうのだ。
マイナーである、っていうのは、決してヒエラルキーの上層部でもなければ、特権階級でもないわけなのだ。それは迫害され、罵倒されながらも、それでも自分の好きなことをやめられない、捨てられない、その魂の叫びなのだ。
かつて、われわれは、マニアと呼ばれ、ファンと呼ばれた。
しかし、マニアという言葉ももともとは蔑称だったのだ。
maniac、ちょっとイカれたヤツ・・・みたいなニュアンス、いやもっとひどくて性犯罪者、あるいは言葉通り狂人というニュアンスもあった。
ファナティックを語源とするファンということばは、1950年代生まれのわれわれの世代ではほとんど蔑称的感覚はなかったが、それでも60年代、十代の頃に年配の人(戦中派から団塊前期)の話し方の中に、微妙に蔑視的感覚が残っていたのは覚えている。
そういった言葉から毒が抜け去り、現象を説明することばになっていった、というのもあるけど、そうなってしまったものの力、マスの力を獲得する代わりに、同時にその毒、蔑称の中に込められていた、先鋭な前衛感覚もまた喪失していくのである。
オタクということばが、さながら、高貴な趣味人みたいな感覚で語られるとき、異様な苦々しさと、認知されてしまうことによって喪失してしまった価値の大きさを感じてしまうのだ。
15年前に「ヲタク」と呼ばれることには、気恥ずかしさと、ちょっぴり嬉しい感覚もあったが、今ではあまり嬉しく感じないのも、その毒が抜かれてしまった語感にあるのだろう。
意図的に、数的少数派にこもる必要もないし、そんなことが目的なのではないが、自己の求めるものが少数派に属していても、それゆえにこそ燃え上がるものを感じる、その感覚なのだ。
まぁ、隣人さんの意図と私の意図とではどこまで一致するのかわからないし、あるいは私が誤読しているところもあるだろうとは思うが、自分の言葉におきかえてみると、そういうことだ。
極論すると、極める者、あるいは極めようとする者は、世間の理解など求めない。おのが魂の鼓動のみを聞いているのだから。
同人時代、ぐらこん時代についても少し書いてみようと思ったけど、飛躍しすぎそうなのでこのへんでやめておくが、これはなかなか重要なテーマだと思った。