火星の月の下で

日記がわり。

○リア充オタクという言葉のうす気味悪さ

1990年代のオタクの扱い酷すぎワロタ
宮崎事件前後の頃の新聞雑誌記事からの引用があったのでリンク。
何年かに一度くらいの割でこういう回顧記事が出てくるけど、これはかなり良いことだと思う。
オタクが差別されていた、白眼視されていた、というのをしっかり意識することは、別に被害者意識になれということではなく、かつてはオタク生活を送るというのは、これくらい命がけだったのだ、ということの再認識になるから。
今の時代は・・・ある意味我々の勝利に傾きつつある、と言ってもいいかもしれない。
幾分感性の違い、意識の差、なんてのがあるかもしれないし、昔のオタクが希求していたものと現在のオタクが希求していたものに微妙なズレがあるとしても。
それをもふまえて良い時代になった、というのは言ってもいいかも知れない。もちろん手放しで賛同というところまではいかないけど。
なぜこうなったのか、についてはいろいろ分析もあり意見もあるだろうけど、ワタクシなどは巨大な金が動くようになったからだと思っている。
80年代、そして90年代初頭までたたかれていたのは、当時の社会的エリート、メディアの中枢にいた人間の理解の範疇を超えていたということ以上に、それがあまり金を動かさなかったことがあったからだと思うのだ。
つまり、そういう「自分達が理解できないもの」を叩いても、経済的な被害を被らなかったので、遠慮無くやれたという側面。
また、それ以前、70年代以前の頃は量的にも微少だったので、ほとんど無視できる規模だった、それがこの80年代になって、無視できない規模になりつつあった、でも国家経済を動かすほどの金銭的移動まではいっていなかった。
メディアや芸能界の掌返しは、そこに金が動くことをかぎつけたから、というのがワタクシの考え。まあ、いろんな考え、分析があるだろうし、それらを否定して、というのではもちろんないけど、この経済面を無視してはいけないと思う。
今後の課題はその感性を先鋭化し続けることかな、なんて思っているわけで、かつてメディアに恐れられたオタクが持っていた危険性、反社会性、文化性といった猛毒が、一般化することで広く受け入れられるようになってうすまってきている。
時代時代にあわせて主義主張や毒の種類、強さも変ってくるけど、この先端にいる連中が持つ毒の怖さも忘れてはいけないと思う。
昨今言われ出している「リア充オタク」なんて気色の悪い視点は、この毒をぬぐい去ろうとしているところがあり、やや不快感を感じてしまうところでもある。ある意味、ソフトSM、ラブ奴隷ということばの不可解さに通じるところがあるかもね。